编辑
2024-10-23
日语
00
请注意,本文编写于 153 天前,最后修改于 156 天前,其中某些信息可能已经过时。

目录

短篇1
短篇2
短篇3
短篇4
中篇1
中篇2
中篇3
中篇4
长篇
对比
长篇2

短篇1

原文:

情報社会、あるいは情報化社会といっても過言ではありませんが、そこて懸命に生きていこうとする と、まず出てくる悲鳴があります。つまり、あまりにも多くの情報があって、その中のど れが本当なのか、何を選んだらいいかわからない。今、流行っているものの情報に熱心で あればあるほど、世間て流行っていることを知らないと自分が送れるんじやないか、とい う焦りみたいなものが人間を突き動かすのが情報化社会の特徴です。

译文:

在信息社会,或者说是信息化社会,如果要努力地生活下去,首先会听到一种悲鸣。也就是说,信息实在太多了,我们无法分辨哪些是真的,也不知道应该选择什么。现在,对流行事物的信息越是热心,就越有一种焦虑,担心如果不了解社会上流行的东西,自己就会落后,这种焦虑感驱使着人们,这就是信息化社会的特征。

短篇2

原文:

「思ったこと」や「考えたこと」という抽象的な存在が文字という具体的な存在に変化した瞬間、その筆者は自分自身の「思ったこと」や「考えたこと」を、直接、自分の目で「見た」ことになる。つまり、客観的に「観察」することになるわけだ。「書くこと」は「読むこと」。自分の文章を読みながら書き進めるのが、「書く」という作業なのである。観察はほとんど必然的に「批判」の心を呼び起こす。「思ったこと」や「考えたこと」の後ろや甘さを、書いた瞬間に思い知らされるのである。

译文:

当“思考”或“想法”这样的抽象存在转化为文字这种具体存在的瞬间,作者会直接用自己的眼睛“看到”自己的“思考”或“想法”。也就是说,这变成了客观的“观察”。写作就是阅读。在写作过程中,一边阅读自己的文章一边继续写作,这就是写作的本质。观察几乎必然地会唤起“批判”的心态。在写作的瞬间,作者会意识到自己“思考”或“想法”的背后和甜蜜之处。

短篇3

原文:

昔と比べてモノが売れなくなり、広告の動きも悪くなっていることから、表現の面白さや新規性ばかりに走ってしまう--要は、本来、最も大切であるはずの消費者心理のツボを十分につききれていない、分析しきれていない、いわば表面上の、表現にこだわった広告が増えているように感じます。 消費者心理は「本質」、表現は「伝え方」とも言い換えられますが、最も大切な本質を重視せず、表面上の伝え方ばかりに重きが置かれるようになっている状況は、いかがなものでしょうか?本質なきところに良い伝え方など存在するはずがないのです。

译文:

与过去相比,现在商品越来越难以销售,广告的效果也在下降,因此广告开始追求表现的趣味性和新颖性——换句话说,就是没有充分理解消费者心理的关键点,没有进行深入分析,而是过分注重表面的表达方式的广告越来越多。 消费者心理可以被称作“本质”,而表达方式则是“传达方式”。如果不重视最重要的本质,而只是注重表面的传达方式,这样的情况如何呢?没有本质的地方,是不可能有好的传达方式存在的。

短篇4

原文:

語り合えば語り合うほど他人と自分との違いがより細かくわかるようになること。それが対話だ。「わかりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること。それは、不可欠なものに身を委ねることである。そのことで、人はより深い対話をできるようになる。対話のなかでみずからの思考をも鍛えていく、よく考えたうえで口に出せる他人の異なる思いや考えに、これまたよく耳を澄ませることで、自分の考えを再点検しはじめるからだ。

译文:

通过对话,我们能更细致地理解他人与自己之间的差异。这就是对话的本质。从“无法理解”、“无法传达”的困惑和痛苦出发,这是将自己托付给不可或缺之物的过程。通过这个过程,人们能够进行更深层次的对话。在对话中,我们锻炼自己的思考,通过深思熟虑后表达出来的他人不同的想法和观点,我们又通过仔细聆听,开始重新审视自己的想法。

中篇1

原文:

「常識を疑ってみる」ということ、実はそれが学問の始まりでもあります。勉強が「強いて勉める」という受動的な側面を持つものであるならば、学問は「問うて学ぶ」ことであり、極めて能動的な行為です。自ら主体的な行為として問うことを通して、常識とされてきたものの見方を疑い、それを少しずらすなどして、別の見方を見出そうとしていきます。学問の「正解」はひとつとは限りません。学ぶこととは、単純に知識を増やすということではなく、ましてやテストで覚えたことを吐き出すことでもなく、それを自分のものとして再編成していくことであり、さらに言えば自分の物差しが変わり、自分自身が変わっていくことなのです。そして、思いがけない大発見や、独創的なアイデアが生まれるかもしれません。

「歌う」という言葉は、通常は否定的な意味で使われます。「人を疑う」と言えば、普通はその人を信用しないというのと同義なわけです。私も、人を疑って生きるよりも、できるだけ人を信じて生きていたいと思っています。しかし、世の中で当たり前とされている事柄を「疑う」ことが必要な時もあります。「常識だから」という言葉で目を閉じ、それに安易に取り込まれてしまうことなく、そこを少しずらしたところに面白いことを見出していきたいものです。それは、何事も信用しないというような厭世的な生き方に陥るのではなく、むしろ創造的で豊かな世界を紡ぎだしていくための、積極的な姿勢なのです。

译文:

“质疑常识”实际上是学术研究的起点。如果说学习带有“被迫学习”的被动性,那么学术研究则是“通过提问来学习”,是一种极其主动的行为。通过自己主动地提出问题,质疑那些被认为是常识的观点,并稍微改变它们,从而寻找不同的视角。学术研究的“正确答案”并不总是唯一的。学习不仅仅是增加知识,更不是仅仅为了考试而记忆和吐出知识,而是要将这些知识重新整理,使之成为自己的东西,进一步说,是改变自己的标准,使自己发生变化。这样,可能会有意想不到的重大发现或独创性的想法。

通常,“歌唱”这个词带有负面含义。“怀疑人”通常意味着不信任那个人。我也希望尽可能地信任他人,而不是怀疑着生活。然而,在这个世界上,有时质疑那些被认为是理所当然的事情也是必要的。“因为是常识”这样的说法闭上眼睛,不轻易被它所吸引,而是要稍微偏离它,寻找有趣的事情。这并不是陷入一种什么都不信任的厌世生活,而是为了编织一个创造性和丰富世界,采取一种积极的态度。

中篇2

原文:

春に美しい花をさかせるカタクリは、アリに種まきをさせるという驚くべき戦略を持っている。カタクリの種は熟すのは花が咲いてから、およそ2ヶ月後だ。はじけて地面に落ちた種は、すぐにアリがやってきて巣に運んでいってしまう。薄茶色の種の先に白い部分がある。これが脂肪分に富んだエライオソームと呼ばれるものだ。アリはこの部分に引かれることが分かっている。エライオソームはアリにとってそれほど魅力的な物質であるらしい。

運ばれた種はアリの巣に貯蔵されることになるが、アリは2日もすると、せっかく運び込んだ種を巣から運び出してしまう。種は巣の中深いところに持ち込まれても発芽できないから、これはカタクリにとって好都合だ。どうしてアリがせっかく集めた種を捨ててしまうのか。実は熟して地上に落ちたばかりのカタクリの種についているエライオソームは、アリの幼虫が共通して持つにおいに近い物質を持っているのだという。アリは種を食べ物として集めるわけではなく、自分の幼虫と思って巣に持ち帰るらしいというわけだ。ところが種がはじけてから24時間もすると、アリの死んだ幼虫のにおいに変わるのだそうだ。それで今度はアリは種を巣の外に捨てに行くのだというから恐れ入ってしまう。

译文:

春天里,美丽的花开得正盛的カタクリ(一种植物)拥有一种令人惊讶的策略,即利用蚂蚁来传播种子。カタクリ的种子在花朵绽放后大约两个月成熟。种子一旦裂开落到地面,蚂蚁就会立刻过来将其运回巢穴。这些种子的尖端有一部分是白色的,这是富含脂肪的称为エライオソーム的部分。已知蚂蚁会被这部分吸引。エライオソーム对蚂蚁来说似乎是一种非常有吸引力的物质。

被运走的种子最终会被储存在蚂蚁的巢穴中,但蚂蚁会在两天内将这些种子从巢穴中运出来。因为种子被带到巢穴深处也无法发芽,这对カタクリ来说是好事。为什么蚂蚁会丢弃好不容易收集来的种子呢?实际上,刚从地上掉落的カタクリ种子上的エライオソーム含有与蚂蚁幼虫相似的气味物质。蚂蚁并不是将种子作为食物收集,而是误以为是自己的幼虫带回巢穴。然而,种子裂开后大约24小时,其气味会变成蚂蚁死去幼虫的气味。因此,蚂蚁会将种子丢弃在巢穴外,这真是令人惊叹。

中篇3

原文:

子は親の鏡と言われる。こどもを見ればおやが分かるということだが、こどもは親のしぐさ、もの言いを実によく見ている。三つにもなれば如何にも生意気で反論などをするものだが、「そんな言い方をするものじやない」といったら負けだ。「あら、あなたの言い方とそっくりよ」と横からチクリと揶揄されるのがオチだから。全くこどもは物真似の名人なのである。アイドル歌手からくまのプーさんの喋り方まで、見境なく貪欲にピ-してしまう。コピーすることによってこどもたちはすべてを獲得してゆく。こどもたちは個性的であろうなどと少しも考えない。みんなと同じようにできることが嬉しくてたまらないのだ。

だが、こどもの再現のありさまを少し注意深く観察していると、この性能の良い複写機の、本当の性能の良さが見えてくる。大人たちの考えるコピーとはささか違うのである。こどもたちの身体的能力、言語的能力が未熟なのでオリジナルなものの完璧なコピーができない。従ってこどもはオリジナルなものを自由に変改する。切り捨て、誇張する。それはオリジナルなものからの絶妙な逸脱なのである。この模倣行為は、むしろ一人のこどもの生きる全体のなかで、今全く新しく意味付けられた別のオリジナルなものが生成していると言ってもいいものなのだ。

こどもが模倣をしながらも、とりわけ個性的であるのは、このような模倣モデルからの自由な逸脱があるからだ。私たちがこどもをみて楽しむのも、その逸脱のほほえましさなのではないか。

译文:

孩子被称为父母的镜子。通过观察孩子,可以看出父母的样子,因为孩子非常仔细地观察着父母的行为和说话方式。到了三岁,孩子们会变得相当顽皮,甚至会反驳,但如果说“不能那样说话”,你就输了。因为旁边会有人嘲讽说:“哎呀,你的说话方式和他一模一样呢。”孩子们确实是模仿的高手。从偶像歌手到小熊维尼的说话方式,他们毫无选择地贪婪地模仿。通过模仿,孩子们逐渐获得了所有的东西。孩子们并不考虑要变得有个性。他们只是因为能够和大家一样而感到非常高兴。

然而,仔细观察孩子们的模仿行为,你会发现这个性能良好的“复写机”的真正能力。与成年人所理解的模仿不同,孩子们的身体能力和语言能力尚未成熟,无法完美地复制原创的东西。因此,孩子们会自由地改变原创的东西,剪切、夸张。这是从原创事物中绝妙的偏离。这种模仿行为,在一个孩子的整个生活中,可以说是在生成一个全新的、具有新意义的原创事物。

孩子们在模仿的同时,之所以能够表现出特别的个性,是因为他们对模仿模型进行了自由的偏离。我们之所以喜欢观察孩子们,不正是因为这种偏离的可爱之处吗?

中篇4

原文:

人々の肉体には、実は大きな幅がある。生まれ持った個性があり、成長の段階で著しく変改するこうした人間が使用するものを作る際の方向性には、二つの選択肢がある。一つは、異なる体格や身体能力を持った多数の人々が同じものや環境を平等に使えるようにする方法。もう一つは、それぞれの体格や能力に合わせて、いくつかのサイズや機能を用意する方法である。前者は経済的に有利な試みだが、その効果に限界があるケースが多い。後者は多様なユーザーに対応できるが、開発に時間がかかりしかも作られたもののコストが上昇してしまうという問題性を含んでいる。

ユニバーサルデザイン(UD)では、使い手の様々な問題負担を抑えつつ、個人に不平等感を抱かせないデザインやものづくりを求められている。デザインに平等という意識を上手に反映させていくために、多様な使い手とできるだけ接触し対話を行い、使い手に対する知識と体験を広けることが効果的だ。私たちが平等という感覚をどのような時に感じ、考えるのかという点で、見つめ直したい。

私たちが平等かどうかを意識するのは、確かな不平等の予感や印象を持った時であることは間違いがない。平等がきちんと保証されている場合、その状況は私たちにとって自然なことであり、問題意識を芽生えることはない。しかしデザインやものづくりに当たっては、問題が発生してから平等について考えるのではなく、ものやサービスに常に必要な普通の意識であるととらえたい。

译文:

人类的身体实际上有很大的差异。每个人天生具有独特的个性,并且在成长过程中会发生显著的变化。在设计供人类使用的物品时,有两个选择方向。一是为了让不同体型和身体能力的人们能够平等使用相同的东西或环境的方法。另一个是根据每个人的体型和能力,准备不同尺寸和功能的方法。前者在经济上是有利的尝试,但其效果往往有限。后者虽然能够应对多样化的用户,但开发所需时间较长,并且制作出来的产品成本也会增加。

在通用设计(UD)中,我们被要求设计出既能减轻使用者的各种负担,又不会让个人感到不平等的产品。为了将平等的意识巧妙地反映在设计中,与多样化的使用者接触并进行对话,扩大对使用者的知识和体验是有效的。我们应该重新审视我们在何时感受到平等,以及我们是如何思考的。

我们意识到平等与否,往往是在我们确实感到不平等的预感或印象时。当平等得到充分保障时,这种状况对我们来说是自然的,不会引发问题意识。然而,在设计和制造过程中,我们不应该等到问题发生后才考虑平等,而应该将平等视为对产品和服务始终需要的普通意识。

长篇

原文:

通常、ロボットに対するプログラミングは、センサから取得した情報に応じてロボットが何らかの反応をするようなものを作っていく。たとえば「障害物を察知したら避ける」といった具合のものである。しかし、僕はロボットがもっと適当に、意味のない動きも含めて様々な行動を取るようにしたのだ。

300以上の動作プログラムをし、動作パターンが次々にどういう順番で発見するかというルールを700以上プログラムした。その結果複雑に、多様に動くロボットが実現された。ここまでやると、自分たちでもプログラムがどう作用するかわからなくなる。何に反応して、どんな行動をするか予測不能になった。

そんなプログラミングをしておいたロボットを研究室に置いていたら、何が起こったか。僕らがミーティングをしているとき、突然ロボットは僕らの音声を認識し、「そうではないよ」と言って手をぶらぶらさせながらどこかに向かって歩きだしたのだ。それを見て僕らは呆気にとられながらも、ロボットに意思を感じてしまった。僕らの話を聞いていて、彼は思うところがあり、だからどこかに向かってしまったのだ、と。

もちろんそれは、ロボットの中のあるプログラムが、何かをきっかけに作動しただけのことだ。だが何か首尾一貫したひとつの意思決定機構から生み出された行動であるかのように見えたのだ。

僕はそのとき確信した。「心とは、観察する側の問題である」と。

非常に単純な機械の動きに「心を感じますか」と聞けば、感じると言う人は少ない。多少複雑でも、原理を知っていれば「それは心ではない」と言う。しかし、人間は複雑である。いや、虫程度でもいい。動きが相当以上に複雑なものに対しては、相手のことを一から、すべては理解しきれない。自分の頭の中で完全に再現しきれない、解釈しきれない、理解しきれないほど複雑なもの、仕組みがよくわからないくらい入り組んだものが目の前にあると、「こいつは、私の知らないところで勝手に独立して考え、動いているのだろう」という想像が働く。その浮かんできた想像に名前をつけずにはいられなくなる。それを「心」と呼んでいるのだ。

心とは、複雑に動くものに現実的にあるというより、その動きを経ている想像がしているものなのだ。そしてその心は、見ている側の自分にも都合がいい。とくに人間同士であればお互いに「心がある」と感じてしまっている。だから人はみな「自分には心がある」と思う。しかし心は、実は自分の中にいくら問い合わせ、内省してみてもわからない。相手を観察し、想像することでしかわからないものなのだ。

译文:

通常,对机器人的编程是根据从传感器获取的信息,使机器人做出某种反应。例如,“检测到障碍物就避开”。然而,我让机器人更随意地,包括无意义的动作在内,进行各种各样的行动。

我编写了300多个动作程序,并为动作模式的发现顺序编写了700多个规则。结果,实现了复杂且多样化动作的机器人。做到这个程度,我们自己也弄不清楚程序是如何作用的。它会根据什么做出反应,采取什么行动变得不可预测。

当我们将这样的编程机器人放在研究室里时,发生了什么?当我们在开会时,机器人突然识别到我们的声音,说“不是那样的”,同时摇晃着手向某个方向走去。看到这一幕,我们虽然感到惊讶,但也感受到了机器人的意志。我们觉得它在倾听我们的谈话,有了自己的想法,所以才向某个方向走去。

当然,那只是机器人中的某个程序因为某个契机被触发了而已。但它看起来像是由一个连贯的意志决定机构产生的行动。

那时我确信了,“心是观察者的问题”。

对于非常简单的机械动作,如果问“你感觉到心吗”,很少有人会说感觉到了。即使稍微复杂一些,如果了解其原理,人们也会说“那不是心”。然而,人类是复杂的。即使是虫子,如果动作足够复杂,我们无法完全理解对方。当面对复杂到无法完全再现、解释或理解的东西时,我们会想象“这个东西可能在我不知道的地方独立思考和行动”。这种想象让人忍不住给它命名。我们称之为“心”。

心不是实际存在于复杂运动的东西中,而是观察者在想象这种运动时产生的。而且,这种心对观察者自己来说也是方便的。特别是人与人之间,我们都会感觉到对方有“心”。因此,每个人都认为自己有心。然而,心实际上是我们无法通过询问自己或内省来理解的。我们只能通过观察和想象对方来理解心。

对比

原文:

A

私は普段からメモ魔ですが、人の講演に行くと、必死にメモを取りながら話を聞きます。せっかくその場にいるのだから、最大限吸収して帰ろうと考えます。あるいは友達とくだらない話をしている時でも、「あれ?」と思ったことや、「いい話だ」と思ったことは、何でもその場でメモを取るようにしています。そこで何を感じたり、新しく知り得たものは、別の機会に自分の役に立つかもしれないからです。

新しい発想や考え方のヒントを得たいと思いながら問題意識を持っていれば、何気なく人の発言のなかにも発見があるはずです。メモを取らなければ忘れてしまいますので、必然的にメモを取ることになります。手を動かして、記録を取る結果、記憶にも残りやすくなります。こうして意識化・可視化することが大切です。

B

話を聞いている時に、視線も上げずにただひたすらメモを取っている人がいます。熱心さは伝わるが、質問もされないと興味や関心を持って聞いてもらえているのか不安になります。このような人は、メモを取ることが目的になってしまっているのではないか。多くの情報を正確に書きとることに集中してしまい、肝心な内容が頭に入っていないのだ。

しかしどんなに正確にメモを取ったとしても、内容が理解できていなければ、あとでメモを活かすこともできません。受け身ではなく、自分に必要な情報は何か、自分だったらどうするかというように自分と関連付けて、主体的に考えながら聞くことが必要です。メモは、あとで話を整理する際の手がかりになれば十分です。

译文:

A

我平时就是一个喜欢记笔记的人,去听演讲时,我会努力地边听边做笔记。既然来到了现场,我想尽可能多地吸收信息。即使和朋友闲聊时,如果有什么“啊?”的想法或者“好故事”,我也会当场记下来。因为在那里感受到的东西,或者新学到的知识,可能在其他时候对我有用。

如果一直保持想要获得新想法和思考方式的问题意识,那么在别人不经意的发言中也会有发现。如果不记笔记,就会忘记,所以自然会去记笔记。动手记录,结果也会更容易记住。这样有意识地可视化是很重要的。

B

有时候,我会看到有人在听演讲时,视线也不抬,只是不停地记笔记。虽然他们的热情可以感受到,但如果连问题也不问,就会让人怀疑他们是否真的感兴趣或关心。这样的人,是不是把记笔记当成了目的?他们可能过于专注于准确地记录下很多信息,而忽略了真正重要的内容。

但是,无论你多么准确地记笔记,如果不能理解内容,那么之后也无法利用这些笔记。我们需要的不是被动地听,而是要主动思考,考虑哪些信息对自己是必要的,如果是自己会怎么做,这样边听边思考。笔记,只要能在之后整理讲话时作为线索就足够了。

长篇2

原文:

企業にしても、人々にしても、先の見えない不安な時代である。そしてそんな不安な時代を生きる子供たちに、「生きる力」をつけさせたいという「親心」は、わからないではない。また企業の経営者が、少しでも優秀な人材を取り込みたいと考えるのは、必然ではあるだろう。地域の衰退や誠司の空洞化を食い止められる人間が現れてくれれば、私たちの不安な気持ちも、いくぶんなりとも和らぐというものである。

しかし、まがりなりにも教育学を専門とする者として、ここは言わせてほしい。現代日本社会の問題を、なんでもかんでも教育で解決しようというのはいただけない。

確かに教育は、人間を育てることを通じて、人々の人生や社会の未来に対して、一定の貢献を為すことができる。しかし私に言わせれば、そのような教育の役立ちの度合いは、決して大きいものではない。教育には不確定性がつきものである。これはもう、教育養成のテキストでも論じられる「教育学の基本のキ」だ。教えたからといって、その分だけ子どもが育つというものではないし、教えたつもりがないのに、子供の方が勝手に学んでいるということもある。もちろん教師も教育学者も、その確率論的な育ちをどうにかして望ましい方向に向ける努力はするが、なんと言っても育つのは子どもなのだから、「最小限のコストで最大限のメリットを達成しなさい」「必要な人材をきっちり育て、耳をそろえて社会に納品しなさい」などという注文を、そうそう請け負うことはできない。

それにそもそも教育は、経済のためだけのものでも、共同体の維持のためだけのものでも、家族のためだけのものでもない。市場も、国家も、地域共同体も、そして家族も、もっと役に立つ教育をしる、意味のある教育をしると言うけれど、それぞれの注文はバラバラである。もちろん教育は、それぞれの要求に(確率論的に)少しずつ貢献はする。しかし、それをもって推し進めて、どれかの目的のためだけに合理化・効率化しようとすれば、教育はずいぶんと歪なものになる。まして、みんながみんな教育からそれぞれの利益を引き出そうと躍起になっても、そんな過剰な期待に引き裂かれた教育がうまく機能するとは思えない。

(中略)

停滞の続くこの社会で、誰もが不安に押しつぶされ、ちょうどその分だけ教育なる過剰な期待や希望を託そうとしている。その結果、教育、なかでも学校教育が、改革の為に吞まれ、余裕をなくしそうになっている。教育に多くをまとめすぎると警報を鳴らすことは、結果的に、この社会と教育を論じるためには今一番必要なことなのではないだろうか。

译文:

无论是企业还是个人,我们都处于一个充满不确定性的不安时代。在这样的时代中,父母希望孩子们能够拥有“生存的力量”,这是可以理解的。同时,企业的经营者们也希望能吸引到一些优秀的人才,这也是必然的。如果有人能够阻止地区衰退和人口减少,我们的不安情绪也会得到一些缓解。

然而,作为专门研究教育学的人,我想在这里说,把现代日本社会的问题全部归咎于教育来解决是不可取的。

的确,教育通过培养人,可以对人们的未来和社会的未来做出一定的贡献。但在我看来,教育的这种帮助作用并不是很大的。教育本身就带有不确定性,这是教育学的基本常识。并不是说教了就能保证孩子成长,有时候即使没有特意去教,孩子们也会自己学习。当然,教师和教育学者会努力将这种概率性的成长引向一个良好的方向,但最终成长的是孩子本身,所以“用最小的成本实现最大的效益”、“培养出符合社会需求的人才”这样的要求,教育界是无法轻易承担的。

而且,教育并不是仅仅为了经济、共同体的维持或家庭而存在的。市场、国家、地区共同体以及家庭,都希望教育能够更有意义,但这些要求各不相同。当然,教育会在一定程度上满足这些要求,但如果我们试图仅仅为了某个目的而将教育合理化和效率化,那么教育就会变得扭曲。更不用说,如果每个人都试图从教育中获得各自的利益,那么这种过度的期待只会让教育功能失调。

在这个停滞不前的社会中,每个人都被不安压垮,正因如此,人们把过高的期待和希望寄托在教育上。结果,教育,尤其是学校教育,因为改革而变得没有余裕。我认为,对教育寄予过多期望实际上是在向这个社会和教育发出警报,这可能是现在最需要讨论的问题。

本文作者:yowayimono

本文链接:

版权声明:本博客所有文章除特别声明外,均采用 BY-NC-SA 许可协议。转载请注明出处!