原文
(1).ファッションなど、流行は模倣を前提にしている。真似られなければ、ファッションなど成立しない。ミニスカートをデザインしたとしても、特定のデザイナーのものだけが売れるのでは、流行にはならない。多くの者が模倣してはじめて流行は成立するため、ファッションなどには、模倣を誘発させようとする意図が最初から織り込まれている。
译文
(1).像时尚这样的流行趋势本质上是以模仿为基础的。如果没有人模仿,时尚就无法成立。即使设计了迷你裙,如果只有某个特定设计师的作品热卖,那也无法形成流行趋势。只有当许多人开始模仿时,流行趋势才能成立,因此时尚本身就包含了激发模仿意图的初衷。
(摘自浜野保樹《被模仿的日本——从电影、动画到料理、时尚》)
原文
営業部社員各位
2012年6月27日
総務部長
業務用携帯電話の貸与について
このたび、業務用携帯電話を貸与することにいたしましたので、貸与申請書を7月10日までに総務部まで提出ください。業務用携帯電話は、7月17日以降順次配付いたします。
また、私物の携帯電話の業務使用は、8月1日以降禁止いたします。7月31日までの通話料金の請求書類は、8月31日必着で総務部にご提出ください。
译文
致所有营业部员工
2012年6月27日
致总务部长
关于业务用手机的配发
我们决定配发业务用手机,因此请在7月10日之前将申请书提交至总务部。业务用手机将从7月17日开始陆续分发。
另外,从8月1日起,将禁止使用私人手机进行业务相关的工作。请将截至7月31日的通话费用账单在8月31日之前提交至总务部。
请注意,原文中的“社具”应为“社員”(员工),并且在“提出ください”和“必着で”后面添加了适当的标点符号,以符合日文书面语的格式。
原文
(3).情報化、グローバル化と言われ、視野を広げるべき時代に、実は極めて限られた世界、社会でしか情報や価値観を得られていない人が増えているように思えます。インターネットは世界中どこにでもつながりますが、自分で意識しないと、限られた価値観の情報だけが集まり、さらに深く入り込む。世界観を広げるインターネットが、逆に世界観や価値観を狭めてしまう、視野狭窄(注)に陷らせる道具となってしまうのです。
(伊藤真「会社コンプライアンス--内部統制の条件』による)
(注)視野狭窄(きょうさく):見える範囲が狭くなること
译文
(3).尽管我们生活在一个被称为信息化、全球化,应该拓宽视野的时代,但实际上似乎越来越多的人只能从一个极其有限的世界、社会中获取信息和价值观。互联网可以连接到世界任何地方,但如果不有意识地去做,就只会聚集有限的价值观信息,并且越陷越深。本应拓宽世界观的互联网,反而可能成为限制世界观和价值观、导致视野狭窄的工具。
(摘自伊藤真《公司合规性——内部控制的条件》)
(注) 视野狭窄(きょうさく): 视野变得狭窄。
原文
(4).この社会にはどこかに中心があって、自分はその中心から遠く離れたところに押しやられていると感じている人は多い。しかし、私は私自身の[生きる意味]を創造し、私の生きる世界に意味を与える存在なのであり、世界の中心は私自身にあるのだ。しかし、それは自己チューの世界ではない。なぜなら、私自身が意味を生み出す中心であることを認めるとき、私たちの周りには私だけでなくたくさんの中心があることが分かってくるからだ。
(上田紀行[生きる意味]による)
(注 1)押しやる: 押してどける (注 2)自己チュー: 自己中心のこと。自分のことしか考えないこと
译文
(4).在这个社会中,许多人感觉好像存在着某个中心,而自己被推挤到了远离那个中心的地方。然而,我是一个创造自己[生存的意义]、为我的生活世界赋予意义的存在,世界的中心其实就在我自己身上。但这并不是一个[自我中心]的世界。因为当我们认识到自己是创造意义的中心时,我们会意识到我们周围存在着许多其他的中心。
(摘自上田纪行《生存的意义》)
(注 1)押しやる: 推开,推开去 (注 2)自己チュー: 自我中心。只考虑自己的事情。
原文
(1) 私は、「どうしたらわかりやすく伝えられるか」ということを常に考えています。その一方で、「話を単純化しすぎてはいけない」ということも胆に銘じています。(注 1) この兼ね合いが、結構難しいのです。扱うテーマに関して勉強を積み重ね、知識が増えるほど、難しくなります。生半可(注 2)にしか知らないときのほうが、簡単にさっくり(注 3)単純化できたりします。でも、そのために結果として、全体像が見えずに歪んだ像を示したり、事実とニュアンスが違ってくることにもつながります。これはとても①怖いことです。
それを防ぐには、どうしたらいいか。(中略)
まず、調べたいことを勉強して、誰かに話してみます。簡単に話ができたら、要注意。学部生レベルである可能性が高いからです。そこで満足せずに、さらに深い勉強をしてみましょう。すると、あら不思議。急に話が難しくなります。これが大学院生レベルです。いわば②「わかりやすい説明」に至るスランプのようなものです。
そこで挫折せず、さらに勉強を深め、「この話のキモ(注 4)は何なのか」を考え抜きましょう。すると、ある日突然、自分でも驚くほど、わかりやすい説明ができていることに気づくはずです。あなたは、その分野で、晴れて「指導教授」の立場まで成長したのです。学部生レベルの人の説明の間違いを訂正してあげることもできるようになったことでしょう。
最初の単純化で満足せず、さらに高みを目指すとスランプに陥る。そこを突破すると、「わかりやすい説明」が可能になる。このプロセスが、キモなのです。
(池上彰『<わかりやすさ>の勉強法』による)
(注 1) 胆に銘じる: 決して忘れないようにする (注 2) 生半可: 中途半端 (注 3) さっくり: 大まかに、粗く (注 4) キモ: 最も大事なところ
译文
(1) 我一直在思考“如何才能表达得更清晰易懂”。同时,我也牢记着“不能过度简化话题”。这两者之间的平衡其实相当困难。随着对所讨论主题的学习积累和知识的增长,问题会变得更加复杂。当你对某个主题只是一知半解时,反而更容易进行简化说明。但这样做可能会导致无法看清整体,甚至呈现出扭曲的形象,或者事实与细微差别出现偏差。这是非常可怕的事情。
那么,如何避免这种情况呢。(中略)
首先,研究你想了解的内容,然后试着向别人解释。如果能够轻松地解释清楚,那就要小心了,这可能只是学部生水平的理解。不要就此满足,而是要深入学习更多。然后,你会惊奇地发现,话题突然变得复杂起来。这就达到了大学院生水平。可以说,这是通往“易于理解的解释”的一个瓶颈期。
不要在此时放弃,而是继续深入学习,并思考“这个话题的核心是什么”。然后,某一天你会突然意识到,自己已经能够给出令人惊讶的清晰解释。在那个领域,你已经成长到了可以担任“指导教授”的地位。你现在甚至能够纠正学部生水平的解释错误了。
不要满足于最初的简化,而是要追求更高的目标,即使会遇到瓶颈期。一旦突破这个阶段,你就能做到“易于理解的解释”。这个过程才是关键所在。
(摘自池上彰《<易于理解>的学习方法》)
原文
(2).児童文学の多くは、子どもの視点で書かれています。もちろん作者は大人なのですが、子どもの考え方や、子どもの目線から見える風景を描いています。当然のことながら大人が読む場合、そこにどうしても①視点のズレが生じます。けれど大人はみな、昔、子どもでした。子どもを卒業して大人になったと思っているのが、子どもだった自分を抱えたまま大人になったと思っているのかは人それぞれでしょうが、少なくとも、だれもが子ども時代を過ごしてきています。大人の視点で読みながら、子どもの頃の視点を思い出すことは可能です。自分の中の子どもに寄り添って、一緒に読むとでも言えばいいでしょうか。
子ども時代に読んだ本を再読すると、同じ場面なのに、子どもの頃の自分と今の自分とでは、感じ方や受け取り方が違うのに気づくことがあります。それは今の自分が、自分の心の中にいる子どもと向き合う瞬です。そうした機会に、今の子どもたちへの見方を新たにすることもあるでしょう。たとえば、「最近の子どもには困ったものだ」と文句を言っていたけれど、子どもの頃の自分はどうだったのか?と問い直す。大人であることにあぐらをかいていた自分を省みる。そんなことが起こるかもしれません。
どうぞ、「子どもの本」を開いてみてください。
(ひこ・田中『大人のための児童文学講座』による)
(注)あぐらをかいていた:ここでは、何の疑問も感じずにいた
译文
(2).许多儿童文学作品都是从孩子的视角来写的。当然,作者是成年人,但他们描绘了孩子的思维方式和孩子眼中的风景。显然,当成年人阅读时,无可避免地会产生①视角上的偏差。然而,每个成年人都曾是孩子。无论你是认为自己已经告别了童年成为了大人,还是认为自己带着童年的自己成为了大人,至少每个人都有过童年。在用成人的视角阅读的同时,回忆起童年时的视角是可能的。可以说是与自己内心的儿童相伴阅读。
当你重新阅读童年时期读过的书时,可能会发现即使是同样的场景,童年时的自己和现在的自己在感受和理解上有所不同。那是现在的你与内心中的孩子相遇的时刻。这样的机会可能会让你重新审视对现在孩子们的看法。例如,你可能会反思:“我曾经抱怨现在的孩子们真让人头疼,但回想起我小时候又是怎样的呢?”或者审视那个安于成年状态的自己。这样的事情可能会发生。
请打开一本“儿童的书”看看吧。
(摘自ひこ・田中《成人的儿童文学讲座》)
(注)あぐらをかいていた: 在这里指的是,没有任何疑问地处于某种状态。
原文
(3).ファースト・フードが世界中に広まったのは、文化や人間の集合状態に変化が起こっていたからである。家族はこれまでほど安定したものではなくなったし、私的な生活、労働や遊びのパターンも個人的かつ多様になっていたのである。人間の接触が煩わしいものに感じる傾向も増大した。食事がもつ楽しみは感覚と社交の至上の快楽ではなくなった。それは他の行為のあいまに挿入されるものとなることが多かったし、それと平行して人間は食事を簡便に済ませることを望んだことも考慮すべきであろう。
もちろん都市の食文化にとってファースト・フードが占める位置は、コンビニが買い物行動に対して占める位置と同様、全面的ではない。しかし多種多様なレストランがいたるところに叢生(そうせい)(注 1)してくるなかに、ひとつの均質化する力として割り込み、かつローカルな都市を世界的な規模にまで広がった同一の網目に組み込むことは、無視できない力の兆候的現象なのである。
おそらくこうしたファースト・フードの経験は、意識されていること以上に、ほとんど意識されない感覚的な影響の方が大きいだろう。かつての食の内容からみると、貧困としか言いようのないメニューに慣れること、あえて社会的関係を破壊しようとしないでも、人々はファースト・フードの利用によって、いつのまにか都市の遊民(注 2)になっていくこと、そしてこの食形式の共有によってわれわれは奇妙な形で、自分自身をいつのまにか世界化していることなどである。
(多木浩二『都市の政治学』による)
(注 2)遊民: ここでは、社会的関係を持たない人 (注 1)叢生(そうせい)する: ここでは、多くできる
译文
(3).快餐之所以能在全世界普及,是因为文化和人类的集合状态发生了变化。家庭不再像以前那样稳定,私生活、劳动和娱乐的模式变得更加个人化和多样化。人们开始更多地感到人际接触是一种麻烦。食物带来的乐趣不再是感官和社交的至高快感,它往往被插入到其他行为之间,与此同时,人们也希望简化用餐过程,这也是需要考虑的因素。
当然,快餐在城市饮食文化中所占的位置,并不像便利店在购物行为中那样占据全面地位。然而,在众多不同种类的餐厅丛生的环境中,快餐作为一种均质化的力量介入,并将地方城市纳入全球规模的同一网络中,这是一个不容忽视的力量象征现象。
可能这样的快餐体验,比起被意识到的方面,那些几乎不被意识到的感觉影响更大。从过去的食物内容来看,人们习惯了那些几乎可以说是贫困的菜单,即使不刻意破坏社会关系,人们通过使用快餐,不知不觉中变成了城市的游民,而且通过这种饮食形式的共享,我们以一种奇怪的方式,不知不觉地将自己世界化了。
(摘自多木浩二《都市的政治学》)
原文
まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」に育てていくこと、と定義してみたい。
どんな時代、どんな社会の人間でも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方がある程度想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。
その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民なら漁民としての技能や知識、もう一つは、他の人びとの間でふさわしいふるまいができること——基本的なルールを守り、他の人と協力することができる、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。
では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」ことだろうか? 教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。
だが、この「共有」ということはなかなか難しい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なる社会観・人間観が様々に入り込み、衝突してくるからだ。
たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子どもを添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ子どもの主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。
この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとに自らの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるを得ない。そして子どもを放置すれば主体的、批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとする必要がある。
いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子どもに寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め、共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。
(莉谷剛彦・西研『考えあう技術--教育と社会を哲学する』による)
译文
首先,让我们思考一下教育是什么。目前,我想将教育定义为:将孩子培养成“适合成为社会成员(即成年人)的存在”。
无论在哪个时代、哪种社会,人们都必须将孩子培养成成年人。在那时,社会成员应该具备的“适当”状态被某种程度上预设,并指导着教育活动。
这种“适当性”大致可以分为两个方面。一是具备为了能够工作谋生所需的能力,即农民应具备农民的技能和知识,渔民应具备渔民的技能和知识;另一个是能够在他人之间表现出适当的行为——遵守基本规则,能够与他人合作,履行并承担责任所赋予的角色,即具备与他人相处的能力。
那么,在现代社会中,什么是“适合成为成年人”的事情呢?构建教育理念,就是重新思考并试图共享这一理念。
然而,这种“共享”是相当困难的。这是因为人们对于社会的形态和人的生活方式有不同的看法,即不同的社会观和人生观相互冲突。
例如,对于我最初提出的“教育是将孩子培养成适合成为社会成员的存在”的定义,也有人会感到反感。他们可能会说:“那是试图将孩子塑造成符合社会期待的不好想法。教育应该是培养孩子具备主体性的判断力。”
然而,这种观点是基于一种近代的人类观,即“不仅遵守社会秩序,而且在主体性判断的基础上创造自己的人生,并批判性地审视社会形态的人,才是适合成为社会成员的人”。这也可以被视为社会对孩子们的一种“期待”。而且,如果放任孩子,他们也不会自然成为具有主体性和批判性的人,因此必须有意识地去“培养”。
无论如何,我认为教育并不是自由的,而是社会(成年人)对孩子们的期待,更强烈地说,是一种强制。重要的是,在共享了“在这个社会中作为成年人生活下去需要哪些必要条件”的基础上,是否是经过共享的强制。
原文
皆さんは、今朝起きてからいままでに、どんな広告を見たか覚えていますか。「広告はほとんどなかったと思うけど……」。いやいや、そんなことはありません。現在の時間が、朝会社に着いたばかりだったとしても、短い時間のうちにものすごい量の広告に触れているはずです。テレビ CM で、新聞で、電車の中で、街中で……。何十、何百という数が、目の前を通り過ぎたはずです。
そのなかで、はっきりと思い出せるものはありますか。そう言われてみると、ほとんどといっていいくらい、記憶に残っていないのではないでしょうか。(中路)「広告なんて誰も見ていない」というのは、僕が会社に入って間もない頃に実感したことです。会議で難しい用語が飛び交い、商品のアピールポイントや表現の話は白熱しているのですが、①もっと根本的なことにはなかなか触れられずにいる。目の前の仕事に深く入り込んでしまうと、「果たして、広告とは関心をもってもらえるものなのか」という、ぐっと引いた視線で見ることを忘れがちになってしまうのです。こうした大前提が見えないままに作られている広告が、非常に多いのではないでしょうか。
広告を発信する側としては、伝えたいことはたくさんあって、一般の人たちも当然注目してくれるものと思い込みがちです。ところが、受け手側というのは、発信者側のそんな思いなど、ほとんど意に介していません(注1)。なぜなら、日常生活のなかでは、自分の身の回りの出来事や問題で精一杯になっているからです。人は自分の心にバリア(注2)を張っていて、無意識のうちに外部情報を遠ざけています。ですから、伝えたい情報を相当きちんと整理したうえで、筋道を立てて®略的に伝えることを考えないと、受け手の心のバリアを破って入り込むことなどできないのです。
「振り向かせるためには、刺激的なものにすればいいんじゃないの?」②こういう意見もあるでしょう。でも、単に刺激的なだけでは、一瞬目を引くだけで終わってしまう。心の奥までは浸透していかないのです。たとえるなら、子どもが隠れていた物陰から出てきて、「わっ」と驚かせるようなもの。驚かされた方は、怒ったり相手にしなかったりするかもしれません。相手の理解を得たり興味を引いたりしないと、本当に心を捉えたことにはならないのです。だから、まず何が言いたいのかという主旨をはっきりさせ、そのうえでどんなトーンで伝えるのかという工夫をすることが大切です。
(注1)意に介する: 気にする (注2)バリア: ここでは、壁 (佐藤可士和『佐藤可士和の超整理術』による)
译文
你们还记得今天早上起床到现在看到了哪些广告吗?“我觉得好像没看到什么广告……”不,不是这样的。即使现在是早上刚刚到达公司的时间,你也在短时间内接触到了大量的广告。通过电视广告、报纸、电车内部、街头……成百上千的广告在你眼前闪过。
在这些广告中,你能清楚记得哪些吗?这么说来,可能几乎没有什么留在记忆里吧。(中路)“没人看广告”,这是我刚进公司不久时的体会。在会议中,复杂的术语飞来飞去,关于商品的卖点和表现的讨论非常热烈,但是①对于更根本的问题却很少触及。当我们深入到手头的工作中时,很容易忘记从一个拉开距离的视角去思考,“广告是否真的能吸引人们的关注”。可能有很多广告就是在没有考虑这些大前提的情况下制作出来的。
广告的发布方可能有很多想要传达的信息,并且容易认为一般的人们自然会关注。但是,接收方往往并不关心发布方的这些想法。这是因为,在日常生活中,人们已经被自己周围发生的事情和问题占据了全部精力。人们在心中竖起了一道屏障(注2),无意识地将外部信息拒之门外。因此,如果不将想要传达的信息整理得相当清晰,并且有条理地、策略性地传达,就无法打破接收方心中的屏障。
“为了引起注意,不是应该让广告更刺激一些吗?”②可能有人会这么想。但是,仅仅刺激是不够的,可能只会瞬间吸引目光,却无法深入人心。就像一个孩子躲在隐蔽处突然跳出来吓人一样,“哇!”被吓到的人可能会生气,或者根本不予理会。如果不让对方理解或引起兴趣,就无法真正抓住他们的心。因此,首先明确你想要表达的主旨,然后考虑用什么样的语调来传达,这是非常重要的。
(注1)意に介する: 关心 (注2)バリア: 在这里指的是屏障 (佐藤可士和『佐藤可士和的超整理术』)
原文
A
私たち日本人がこれまで培ってきた日本語を次の世代に伝えていくうえで、国語辞書のデジタル化は避けて通れない課題です。辞書のデジタル化は[電子辞書]という形ですでに実用化され、多くの人が利用してきました。わからない言葉を瞬時に検索できる電子辞書は[データ検索]というコンピュータの強みを生み出したもので、言葉に関する膨大な情報をポケットに入れて持ち歩けるようになりました。
でも、書籍の大辞林(注 1)を手にとって眺めていると、電子辞書では味わうことのできない楽しみがあることに気づかされます。ページをパラパラとめくりながら、気になった言葉の解説を読むという楽しみ方です。辞書は単に言葉を調べるだけでなく、読み物としても十分に楽しめます。
(廣瀬則仁 三省堂 WebDictionaryhttp://www.sanseido.net/main/words/patio/article.aspx?Ai-234cbd63-6ca4-4e06-9e77-1508b31a6493 2011年11月25日取得による)
B
最近の電子辞書研究によると、電子辞書を用いた学生は単語にたどり着く時間は早いが第一義(注 2)の意味だけを拾うことによる回答率が高まるという。また、私が行った大学生のメディア行動調査でも印刷辞書と電子辞書は、意外なことにかなりの率で使い分けられている。パソコンとネットを使いこなす理系学生でも、アンダーラインを引いたり、使いこなすにしたがってカスタマイズできる(注 3)印刷辞書の魅力を語っていた。[印刷辞書はマイ・ディクショナリー(注 4)になりますから]という発言が象徴的だった。生まれたときからデジタル機器に囲まれて育った今の学生でも、メディアの本質を見抜き使い分けているのである。
(植村八潮 三省堂 WebDictionaryhttp://www.sanseido.net/main/words/patio/article.aspx?Ai-234cbd63-6ca4-4e06-9e77-1508b31a6493 2011年11月25日取得による)
(注 1) 大辞林: 国語辞典の名前 (注 2) 第一義の: ここでは、一番目に書いてある (注 3) カスタマイズする: ここでは、自分に都合のいい使い方ができるようにする (注 4) ディクショナリー: 辞書
译文
A
在我们将日本人迄今为止培育的日本语传承给下一代的过程中,国语辞典的数字化是一个无法回避的问题。辞典的数字化已经以[电子辞典]的形式实现了实用化,并且已被许多人使用。能够瞬间检索到不懂的词汇的电子辞典,利用了计算机的[数据检索]优势,使得我们可以将海量的语言信息装进口袋随身携带。
然而,当你亲手翻阅书本版的大辞林(注 1)时,你会意识到电子辞典无法提供的乐趣。那就是翻阅页面,随意阅读感兴趣词汇解释的愉悦。辞典不仅仅是用来查询词汇的工具,它本身也是一本可以充分阅读的读物。
(廣瀬則仁 三省堂 WebDictionaryhttp://www.sanseido.net/main/words/patio/article.aspx?Ai-234cbd63-6ca4-4e06-9e77-1508b31a6493 2011年11月25日取得)
B
根据最近的电子辞典研究,使用电子辞典的学生虽然能快速找到单词,但往往只关注到第一义(注 2)的含义,这导致了回答的准确率提高。此外,在我进行的大学生媒体使用行为调查中,印刷辞典和电子辞典的使用情况出人意料地频繁地被区分开来。即使是擅长使用电脑和网络的理工科学生,也谈到了印刷辞典可以划线标记、随着使用习惯进行个性化定制的魅力。[印刷辞典成为了我的个人辞典(注 4)]这样的说法颇具象征意义。即使是那些从出生起就被数字设备包围成长起来的现代学生,也能洞察媒体的本质,并进行选择性使用。
(植村八潮 三省堂 WebDictionaryhttp://www.sanseido.net/main/words/patio/article.aspx?Ai-234cbd63-6ca4-4e06-9e77-1508b31a6493 2011年11月25日取得)
本文作者:yowayimono
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