原文
(1)何かを学ぶということは、もちろん、問題に答える知識や技術を身に付けるという意味もあるけれど、それは実は学ぶことの本質ではない。私たちは本や学校で、これまで人が見出してきたさまざまな秩序、筋道を学ぶ。だけど、そうやってさまざまな「型」を学ぶことによって、今まで、見えていなかった、あるいは、ぼんやりとしか見えていなかった「型破り」なものが見えてくるようになる。つまり、学べば学ぶほど、見えてくる問題は増えるというわけだ。
(野矢茂樹『はじめて考えるときのように-『わかる』ための哲学的道案内』による)
译文
(1)学习某件事物当然意味着掌握解决问题的知识和技术,但这并不是学习的本质。我们在书籍和学校中学习前人发现的各种秩序和规则。然而,通过学习这些不同的“模式”,我们开始能够看到之前未曾看到的,或者只是模糊看到的“非传统”事物。也就是说,学得越多,能够看到的问题也就越多。
(摘自野矢茂树《像初次思考时一样——为了“理解”的哲学指南》)
原文
横西旅館 二担当者様
1月30日に、貴旅館のホームページから宿泊の予約をした者です。 予約ページによりますと、宿泊の可否についてはメールでご連絡いただけるとのことですが、いまだメールをいただいておりません。 出発の日時が迫っておりますので、早急にご確認いただけますでしょうか。 予約番号は、131130172で、予約した内容は、以下の通りです。 宿泊希望日:2013年12月21日~23日(2泊) 人数:3名(大人2名、子供1名) 部屋:1室(禁煙ルーム) なお、予約時には夕食の時間は、19時にしていましたが、18時に変更してください。 よろしくお願いいたします。 上田真由美
译文
横西旅馆 致负责人:
我是于1月30日在贵旅馆的网站上预订住宿的客人。根据预订页面的信息,关于住宿的确认应该会通过电子邮件通知我,但我至今尚未收到任何邮件。由于出发日期临近,请您尽快确认并回复。
预订号码为131130172,预订内容如下: 住宿日期:2013年12月21日至23日(2晚) 人数:3人(2位成人,1位儿童) 房间:1间(禁烟房) 另外,预订时要求的晚餐时间原为19时,请改为18时。 麻烦您了。 上田真由美
原文
(3)医者、ナース(注)と患者との間の意味のズレやすれ違いは、患者の身体的症状に対する専門的な医学的認識と、患者自身の意味づけとの間に生まれている。医療関係者の課題の一つは、患者自身の身勝手な解釈とそれに基づいた治療行動を再考させて、医学的に求められる治療活動だけに目を向けさせることである。つまり、患者の内面にある認識構造の再構成という難しい問題にぶつかるのである。
(梶田正巳「勉強力をつける-認識心理学からの発想』による)
(注)ナース:看護師
译文
(3)医生、护士(注)与患者之间出现的意义偏差和误解,源于患者身体症状的专业医学认识与患者自身对其意义的解释之间。医疗工作者面临的任务之一是促使患者重新考虑他们基于个人偏见的解释和相应的治疗行为,引导他们专注于医学上所要求的治疗活动。也就是说,他们遇到了一个难题,即需要重构患者内心的认识结构。
(摘自梶田正巳《提高学习能力-来自认知心理学的思考》)
(注)护士:看护师
原文
(4)日記とは限りなく私的な記録であり、読者が存在しないどこか、他人には読まれたくない秘密な表現であるともいえる。ただ一人だけ、奇妙な読者が存在する。いつでも自由に日記を読むことのできる、日記の筆者である。その読者は筆者とは異なる場に立って、様々な配慮を働かす。万が一、日記が盗み読まれたり(注)、死後に他人の目に曝されるようになる事態が発生した場合、こんなことが書かれているのはまずいのではあるまいか、等々と。しかし、これは限りなく私的な記録である日記にとっては矛盾である。
(黒井千次『図書』2007年2月号による)
(注)盗み読む: 他の人の日記や手紙などをこっそり読む
译文
(4)日记是一种极其私人的记录,可以说是不存在读者的、不想被他人阅读的秘密表达。然而,有一个奇怪的读者存在。这个读者可以随时自由地阅读日记,那就是日记的作者自己。这位读者站在与作者不同的立场上,会考虑到各种因素。如果万一日记被偷偷阅读,或者在作者去世后被他人看到,可能会想:“这样写是不是不太好?”等等。但是,对于本应是极其私人的记录的日记来说,这却是一种矛盾。
(摘自黑井千次《图书》2007年2月号)
(注)盗み読む: 指偷偷阅读别人的日记或信件等。
原文
(1)十年絵を描いてきて、最近になってようやく筆の止めどころがわかってきたかな、と思います。書きすぎずに、筆を置くコツが少しずつわかってきた。
最初のうちは、筆が多くなるものなんです。描きたいという気持ちが強いだけに、まだ足りない、まだ足りないという気になって、どんどん描き足してしまう。だけど、それを無理してセーブすることはないと思います。やっぱり、①とことん行ききっちやったほうがいいんですよ、何事も。
たとえば、空腹のときに腹一杯食べて満腹感というものを味わっておかないと、加減というものがわかりません。人間満腹を知っているから、これはまだ五分(注1)、腹八分といったらこの程度だという加減がわかる。一度とことんやってみることで、抑えることや、行き過ぎない良さが初めてわかるものですからね。
(中路)自分が描きたいモチーフそのものと対峙(注2)して、自分の感じたところを素直に絵にする分にはいいんですが、客観的にそれを見て、ここが足りない。あそこが足りないと思って描き足してしまうと、止めどころが、わからなくなってしまいます。それは、自分がどう見てどう感じたかという気持ちを素直に絵にするということとは違ってくる。②絵を説明してしまうことになる。そうすると、絵がうるさくなります。
客観的な目を持つことも確かに大事なことではあるんですが、見たまま感じたままのストレートな気持ちを解説してはいけないと思うんです。
(片岡鹤太郎『鹤太郎流 墨彩画入門』による)
(注1)五分: 全体の50パーセント (注2)対峙する: 向き合う
译文
(1)经过十年的绘画,最近我才开始明白何时该停止笔触。不再过度绘画,逐渐领悟到了放下画笔的诀窍。
起初,笔触总是很多。因为强烈的绘画欲望,总是感觉还不够,于是不断地添加细节。但是,我认为没有必要强迫自己去节省。毕竟,①彻底做到位总是好的,无论做什么事情都是这样。
比如,只有在饥饿时吃个饱,体验到满足感,才能明白如何掌握分寸。因为人类知道什么是饱腹,所以才能判断出五分饱、八分饱的程度。只有尝试过彻底做到位,才能真正理解掌握分寸和不过度的好处。
(中路)如果只是与自己想要描绘的主题面对面,根据自己的感受直接作画,那当然是好的。但是,如果客观地去看待,认为这里不够,那里不足,然后不断地添加细节,就会变得不知道何时该停止。这与直接表达自己所见所感的心情是不同的。②这变成了在解释画作。这样一来,画作就会变得杂乱无章。
虽然保持客观的视角确实很重要,但是不应该去解释那些直接看到和感受到的纯粹情感。
原文
(2)大方の予想に反して、科学が飛躍的な成果をもたらす現場では、誰もが実生活の中で体験する新鮮な驚きや、たわいのない(注1)思いつきの類いがその起点となっている。むしろ、科学の画期的な発明発見など、限りなく日常的で具体的なものごとが元になっているのである。(中略)
しかし、日ごろの思いつきや驚きと違って、思いついて終わり、驚いただけ、ということにならないところが、要するに科学の特徴である。思いつきや驚きは、新しい確かな「ものの見方」へのきっかけでしかなく、科学とは、それらをとことん洗練する創意工夫の営みにほかならない。実は、創意工夫こそが、歴史上も、有数の科学者たちに見られる、かなり一貫した姿勢なのである。
何かに驚いて、それまででは当然だと思っていたことに、少し違った角度から眼差しを向けてみる。それだけでなく、違った角度から見えてきたことを首尾一貫(注2)させ、確かなものにすると、求めても無駄な望みだと決めつけていたことが、あっさりと実現できることに気づく。新鮮な驚き、些細な思いつき、そしてちょっとした理解の修正をきっかけに、常識とは少し違った「ものの見方」をしたとき、どこか一面化していた常識そのものがより豊かなものにならないか考えてみる。これが科学を本当に発展させた人々に共通した姿勢である。
(瀬戸-夫『科学的思考とは何だろうか-ものつくりの視点から』による)
(注1)たわいのない: ここでは、小さな (注2)首尾一貫させる: 始めから終わりまで、一貫しているようにする。
译文
(2)出乎大多数人的预料,科学取得飞跃性成果的现场,往往是人们在日常生活中体验到的新鲜惊喜或微不足道的突发奇想作为起点。实际上,科学的划时代发明发现往往源于极其日常和具体的事物。(中略)
然而,与日常的突发奇想和惊喜不同的是,科学的特点在于不会止步于仅仅想到或惊讶。突发奇想和惊喜不过是通往新的、确凿的“观察事物的方式”的契机,而科学的本质在于将这些契机彻底地精炼和创新。实际上,创新思维是历史上许多杰出科学家所持的一贯态度。
当你对某事感到惊讶,并开始从一个稍微不同的角度去看待之前认为理所当然的事物。不仅如此,当你将从不同角度看到的事物首尾一致地整合,并使之变得确凿时,你会发现那些曾经认为是徒劳的愿望,实际上可以轻易实现。以新鲜的惊喜、微小的突发奇想和轻微的理解修正为起点,尝试超越常识的“观察事物的方式”,思考是否可以使原本片面的常识变得更加丰富。这正是真正推动科学发展的那些人们所共有的态度。
(摘自瀬戸-夫《科学的思考是什么-从制造的角度看》)
原文
(3)多くの人は、非凡な持ち主に憧れて、できれば見習いたいものだと思いながら、実は、一方で「人並み」であることをひそかに求めてもいる。「人」からはずれていたり、遅れていたりすることは、彼らを極度に不安にする。「同じ思いを抱いていたことを発見することは大きな安心を与えるはずであるから。「同じ」思いの通ずる仲間が見つかると、すぐにでも群れようとする。①そういう人間の傾向は、別に日本人にだけ備わったものというわけでもなく、ほとんど、本能的なものとして、多かれ少なかれ誰もが抱えている要素であると言ってよい。
にもかかわらず凡庸さは、表向き、なぜこれほど忌み嫌われるのか。それは、おそらく、人間というものの大多数が凡庸な生を生きるほかなく、自分の未来もまたその限界のなかにあることをうすうす知っているのだが、そのことをそう決め付けられることは、自分の生を希望のない確定的なイメージに塗りこめてしまうことであり、それは②個としての価値を否定されてしまうことにつながると感じられるからである。
生きる意欲が現にあるのに、お前の未来はこのとおり当たり前のものでしかないと規定されることは、未来に向かうものとしてある。「生の意欲」の本質的条件を根こそぎにしてしまう。自らが有限な存在であることを大筋ではわきまえつつしかもその範囲内に未知の部分を必ずいくらかは残しておく。そこに自らが個であることの確証をかろうじて求めようと試みるのだ。
(小浜逸郎『この国はなぜさびしいのか-「物の指し」を失った日本人』による)
(注 1)凡庸さ: ここでは、人並み、平凡であること。 (注 2)忌み嫌う: ひどく嫌う。
译文
(3)许多人既羡慕非凡之人,内心渴望效仿他们,同时又在暗地里追求“平凡”。与“他人”不同或落后会让他们极度不安。发现有人抱有相同的想法,会带来巨大的安心感,因为这表明他们找到了志同道合的伙伴。①这种人类的倾向,并非日本人所特有,几乎可以说是本能性的,大多数人都或多或少地拥有这种特质。
然而,平凡为何在表面上如此被人们所厌恶?这可能是因为大多数人意识到自己将过着平凡的生活,自己的未来也将局限在这个范围内。被这样规定意味着自己的生活没有希望,变得确定无疑,这感觉就像是②否定了作为个体的价值。尽管人们大体上认识到自己是有限的存在,但仍然希望在自己的范围内保留一些未知的部分。在那里,他们试图寻求自己作为个体存在的证明。
原文
音楽に限ったことではないが、芸術、文化などの名で呼ばれるものは、どうしても現実の政治経済や社会生活に関わることがらとは切り離されたものと考えられることが多く、また、そうであるがゆえに価値を持つものとされてきたと言ったほうがよいだろう。近年のように財政状況が悪化するなど、現実生活をめぐる状況が深刻になってくると、こういうものはしばしば不要不急な「無駄」として切り捨てられそうになる。他方で、荒れた世の中をしばし忘れるためのオアシスのような場所としての意義が強調されるようになったりもするのだが、いずれにしてもその音楽を研究している立場のわれわれはしばしば、「この世知辛い世の中で、そんなことをやっていられるというのはうらやましいことです」などと言われ、①何とも言えない心境になるのである。
だが、コペルニクス的転回を遂げたと言っても過言ではない近年の文化研究の展開の中で、政治や社会の話と切り離して文化が論じられるなどということが幻想である、というより、そのような幻想自体、すでに、一定的の政治的社会的イデオロギーの刻印を帯びたものにほかならなかったということが明らかにされてきた。今や、音楽研究者の中にも、政治や社会から切り離された純粋な「音楽そのもの」がどこかに宙に浮いたような形で存在しているなどと素朴に信じているような人は誰もいないだろう。
音楽研究に関わる人々の意識も変わり、研究の内実も大きく変わってきているにも関わらず、むしろ、音楽研究の世界の外側にいる人のほうが、音楽を「純粋」な形で囲い込みたがっているように思われるのは②皮肉なことだ。社会科学の最先端で議論をしている人が、音楽の話になったとたんに、30年前の音楽研究に展ったかのような古典的なデータや図式でものを考えていることが明らかになるような場面に、これまで何度か出会ってきた。歴史学者などが中心になって編んだ横断的な論集などで、音楽の部分だけはひどく浮き世離れした古めかしい文体が掲載されており、音楽研究の最近の成果と大きく乖離してしまっているようなこともしばしばある。ここ十数年で、音楽研究者の目に映る音楽の世界もすっかりと変わっているのに、われわれの発信が不足しているために、その面白さを十分に伝えきれていない。そんな気がする。
(渡辺裕『音楽は社会を映す-考える耳「再論」』による)
(注1) しばし:しばらく (注2) 世知辛い:暮らしにくい (注3) コペルニクス的転回を遂げる:考え方がこれまでと根本的に変わる (注4) 刻印を帯びる:ここでは、影響を受ける。 (注5) 宙:空中 (注6) 浮き世離れした:現実と懸け離れた。
译文
不仅仅是音乐,被称为艺术、文化的东西往往被认为与现实的政治经济和社会生活无关,也因此被认为是具有价值的。在近年来财政状况恶化等现实生活变得严峻的情况下,这些文化产物常常被视为不必要的“浪费”而面临被削减的风险。另一方面,它们有时也被强调为逃离纷乱世界的一片绿洲。无论哪种情况,我们这些从事音乐研究的人经常被说:“在这个艰难的世界里,你们还能做这样的事情真是令人羡慕。”这让我们感到一种难以言表的心情。
然而,在近年来文化研究的发展中,已经变得显而易见的是,将文化和政治、社会分开讨论是一种幻想,这种幻想本身已经带有某种政治和社会意识形态的烙印。现在,已经没有人相信音乐研究者中还有人天真地认为存在一个脱离政治和社会的“纯粹音乐”在空中飘浮。
尽管音乐研究者的意识已经改变,研究的内容也发生了巨大变化,但那些处于音乐研究世界之外的人似乎更倾向于将音乐“纯粹”地封闭起来,这真是一个讽刺。在社会科学的前沿讨论中,有人一旦谈到音乐,就会突然回到30年前的音乐研究,使用古典的数据和图表来思考问题,这种情况我已经遇到过好几次。在历史学家等主导编纂的跨学科论文集中,音乐的部分往往使用一种与现实脱节的古老文体,与音乐研究的最新成果大相径庭。在过去的十几年里,音乐研究者眼中的音乐世界已经发生了巨大变化,但我们的传播不足,未能充分传达其趣味。这就是我的感觉。
原文
目を見て話す
この秘訣を教えてくれたのは、まだ小さかった頃の娘でした
「外から帰ったら、手を洗いなさい」
「ごちそうさまを言いなさい」
(中略)どんなに声に威厳を込め立つもりでも、新聞を読みながらだと、まるでだめ。
[お父さんはこう言っているけど、手を洗うっていうのは、別に大事なことじゃないんだな]
きちんと目を見ていないと、子供はたちまちそら判断してしまいます。よそ見をしながら口やかましく言い返しても、①「ごちそうさま」を言うようにはならないのです。
目を見て話すことは、分かり合い、メッセージを伝え、コミュニケーションをよくする秘訣。これは子供に限ったことではありません。仕事でも家庭でも、すべての場において有効です。
大人になると、ぎくしゃくすることは頻繁にあります。
環境も価値観も考え方も違う人たちの集まりである以上、意見が食い違ったり、誤解が生じてトラブルになることは珍しくありません。
「じっくり話し合えば、ちゃんと分かり合える」というのは、理想論、残念ながら現実はそうではありません。どちらかが妥協したり、お互いがちょっと意見を曲げたりして合わせているだけで、100パーセントの解決などありえないのが現実です。
あげくの果てに(注)「話しても無駄だし、まだ同じことの繰り返しか」とうんざりし、コミュニケーションをあきらめてしまう-ほうっておくとこんな事態に陥ることも、珍しくはありません。
それでもコミュニケーションを絶めたくないと思ったとき,僕はこの秘訣を思い出しました。いくら意見が食い違っても、どんなにトラブルが燃え上がっても、必ず相手の目を見て話しをするということを。
考え方がまるで合わず、最後まで言い分は平行線をたどるような対立でも、相手の目を見て話し続ければ、不思議なことに相手に尊敬の念が湧いてきます。
たとえ「この人の言っていることは、間違っている!」と思っていても、相手の目を見ていれば、「その人の人間性」に対しては、別の気持ちを抱くようになります。意見は認められなくても、人としては認められるということです。
言い合っても目と目を見つめ合っていれば、不思議な一体感さえ生まれます。結果として解決には至らなくても、悪い方向には向かわない。これだけは、何度も繰り返し言えることです。
疲れていたり、^とんでいたりすると、人は目を見て話すことができません。そして下を向いていればいるほど、悪い事態が悪化します。
さあ、洗物をしながら大事な話をするのはやめましょう。パソコンから顔を上げて、まっすぐ目を見て話しましょう。
理解できない相手でも、受け入れられない相手でも、この秘訣を知っていれば、②何か別の関係は生まれるはずです。
(松浦弥太郎「あたらしいあたりまえ。人暮らしの中の工夫と発見ノート2」による)
(注)あげくの果てに: 最終的に
译文
看着对方的眼睛说话
这个秘诀是小时候的女儿教给我的。
“从外面回来后,要洗手。”
“要说谢谢。”
(中略)无论你多么努力地让声音听起来有威严,如果你一边看报纸一边说,那就完全没用。
[虽然爸爸这么说,但洗手并不是那么重要的事情吧]
如果不直接看着对方的眼睛,孩子们会立刻做出错误的判断。即使你一边东张西望一边大声重复,①他们也不会养成说“谢谢”的习惯。
看着对方的眼睛说话,是理解对方、传达信息、改善沟通的秘诀。这不仅适用于孩子。在工作和家庭中,无论哪个场合都同样有效。
长大后,我们经常会感到尴尬。
由于我们是来自不同环境、价值观、思维方式的人的集合体,意见不合或误解导致的冲突并不罕见。
“只要认真讨论,我们就能互相理解”,遗憾的是,这只是理想化的说法。现实中,往往是一方妥协或双方稍微调整意见以求一致,而不可能有100%的解决办法。
最终可能会感到“说话也没用,还是重复同样的事情”,从而对沟通感到厌倦,放弃沟通。如果放任不管,这种情况并不罕见。
然而,当我不想放弃沟通时,我会想起这个秘诀。无论意见多么不同,无论冲突多么激烈,我都会坚持看着对方的眼睛说话。
即使思维方式完全不同,即使到最后双方的观点仍然平行,只要继续看着对方的眼睛说话,就会不可思议地对对方产生敬意。
即使“这个人说的话是错误的!”这么想,但只要看着对方的眼睛,就会对“那个人的人性”产生不同的感觉。即使意见不被接受,也会被作为人来接受。即使争论不休,只要互相看着对方的眼睛,就会产生一种奇妙的连带感。即使结果没有解决问题,也不会往坏的方向发展。这一点我可以反复强调。
当你感到疲倦或心烦意乱时,你无法看着对方的眼睛说话。而且,越是低头,情况就越会恶化。
那么,让我们停止一边洗碗一边进行重要谈话吧。让我们从电脑屏幕上抬起头,直视对方的眼睛说话。
即使对方难以理解,即使对方难以接受,只要你知道这个秘诀,②就可能会产生某种不同的关系。
原文
A
近年食品問題への関心が高い。その多くは食品の安全性を不安視する声だ。すでに政府は中立の立場で公正に科学的評価を行う機関を設置し、企業も独自の検査や表示を行うなどの対策を始めた結果、以前より安全性は向上していると言える。 しかし残念ながら、まだ消費者の安心感には結びついていない。今後必要なのは、安全なものは安全だと消費者が正しく理解できることではないだろうか。科学的に安全だと判断された食品が、消費者にも安全だと認識されれば消費者の安心につながる。そのためには、提供する側のわかりやすい説明とともに、消費者側もそれを理解するための科学的知識を備える必要があるだろう。
B
発生した食品事故に対して適切な対策がとられ、科学的に安全が証明された後も、いつまでもその食品の消費回復が見られないということはよくある。消費者が納得しないのである。 (中略)安全に関しては、絶対安全ということはありえないにしても、コストさえ掛ければ技術的に安全度を上げることが可能である。しかも安全度は多くの場合、科学的に数値として明示できる。しかし安心の場合には、示された客観的な事実に納得するかどうかは、消費者一人一人の主観によっており、これを得得するのは簡単なことではない。安全を安心に変える難しさには、フードシステム(注)に対する消費者の信頼の程度が大きく関係する。消費者と生産者あるいは、政府の間に信頼関係が構築されていれば安全証明がほぼ同時に安心感と結びつく。
(時子山ひるみ「安全で良質な食生活を手に入れる-フードシステム入門」による)
(注)フードシステム: 食品が生産者から消費者に届くまでの流れ
译文
A
近年来,人们对食品安全问题的关注度很高,其中很多声音表达了对食品安全的担忧。政府已经设立了中立机构,公正地进行科学评估,企业也开始进行独立检测和标识等措施,结果表明,与以往相比,安全性已经有所提高。 然而遗憾的是,消费者的安心感尚未与之相连。未来需要的是,消费者能够正确理解哪些是安全的。如果科学上判断为安全的食品,消费者也能认识到其安全性,这将有助于消费者安心。为此,提供方需要提供易于理解的解释,同时消费者也需要具备理解这些解释的科学知识。
B
对于发生的食品安全事故,即使采取了适当的对策,并且科学上证明了其安全性,但有时食品消费的恢复仍然遥遥无期。这是因为消费者并不满意。 (中略)关于安全,虽然不存在绝对的安全,但只要投入成本,技术上提高安全度是可能的。而且在多数情况下,安全度可以通过科学数值来明确表示。然而,在安心的情况下,是否接受所展示的客观事实,取决于消费者个人的主观判断,这并不是一件容易的事。将安全转化为安心的难度,与消费者对食品系统的信任程度密切相关。如果消费者与生产者或政府之间建立了信任关系,那么安全证明几乎可以同时转化为安心感。
(摘自时子山ひるみ《获得安全优质生活的食品系统入门》)
本文作者:yowayimono
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