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2024-09-19
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短篇1
短篇2
短篇3
短篇4
中篇1
中篇2
中篇3
中篇4
长篇
对比

短篇1

原文

(1).失敗はすべて、子どもがその後の人生を大過(注)なく生きるための血となり、肉となる。そう思えば、失敗する前に手を出すことがいかに愚かな教育か、わかるというものでしょう。

ただし、親は常に子どもをそばでしっかり見守っていなければなりません。手は出さないけれど、いつでも危険から救ってやれるよう、待機するのです。そうして、もし子どもが転んでケガをしたら、「ほら、痛いでしょう。ぶつからないように注意するのよ」と諭してやる。そういう姿勢が親に求められるのです。

(大宅映子『親の常識』による)

(注)大過:大きな過ち

译文

(1).所有的失败都会成为孩子们今后能够无大过(注)地生活下去的血与肉。这样一想,就会明白在孩子失败之前就出手干预是多么愚蠢的教育方式。

然而,父母必须始终在孩子身边密切观察。虽然不出手干预,但要随时准备着能够将孩子从危险中救出。这样一来,如果孩子跌倒受伤了,就告诉他们:“看吧,痛吧。要注意不要撞到东西。”这样的态度才是父母应该具备的。

(摘自大宅映子《父母的常识》)

(注)大过:大的错误

短篇2

原文

<ミススマ健康食品株式会社>ニニース

2014年、10.14健康食品[ビタミン生活V]に関するお知らせ

書客様各位

平素は弊社商品にご愛顧を賜り、厚く御礼申し上げます。

さて、2014年9月8日より通販およで弊社直営店舗での販売を開始いたしました[ビタミン生活V]は、情報番組での紹介もあって、当初の販売計画を大幅に上回り、生産が追いつかない状況となっております。そのため、すでに通販の受注を停止しておりますが、店舗販売も在庫がなくなり次第、一時中止せざるを得なくなりました。

今後は生産体制を整え、11月17日に店舗販売のみ再開を予定しております。

お客様にご迷惑をかけしますことを、深くお詫び申し上げます。

ミツススマ健康食品株式会社 お客担当:0120-333-4455 [受付時間 10:00-18:00 土日祝休み]

译文

< Mitsusuma 健康食品株式会社 > 通知

2014年10月14日

关于健康食品[维生素生活V]的通知

尊敬的顾客们,

感谢您一直以来对我们产品的喜爱与支持。

自2014年9月8日起,我们在网上商店以及直营店铺开始销售[维生素生活V]。由于在信息节目中被介绍,销量远远超出了我们最初的计划,导致生产跟不上需求。因此,我们已经停止了网上商店的订单接收,而一旦直营店铺的库存耗尽,也不得不暂时停止销售。

我们计划在11月17日仅在直营店铺恢复销售。

对于给您带来的任何不便,我们深表歉意。

Mitsusuma 健康食品株式会社 客服电话: 0120-333-4455 [营业时间: 10:00-18:00,周末及节假日休息]

短篇3

原文

(3).以下は、諦めについて書かれた文章である。

人が自分の能力以上のことに憧れ、それがどうしても出来ないというのに、なお執着を持っているとしたら、登れない壁の下で、徒らにじたばたしているようなもので、気の毒でもありますが、滑稽でもあります。この場合は諦めが必要です。

ただそれは、その次の、自分の能力に合った憧れなり、道なりを求めるためにのみ必要であって、諦めの中に漂ってしまうのは、少し見当が外れていることになるかもしれません。

(串田孫一『考える葦』による)

译文

(3).以下是一篇关于放弃的文章。

如果有人渴望超越自己能力的事情,并且无论如何都无法实现,却仍然执着于此,那么他们就像是在攀登不了的墙下徒劳挣扎,既可怜又可笑。在这种情况下,放弃是必要的。

然而,放弃只是为了寻找与自己能力相匹配的新梦想或道路,如果在放弃中迷失方向,那可能就偏离了正确的方向。

(摘自串田孙一《思考的芦苇》)

短篇4

原文

(4).私が 35歳になったころ、「このごろは、少年時代に経験したような、ものすごい雷雨が無くなった」と口にしたことがあります。ところが、60 歳ぐらいになったとき、35 歳ぐらいの人から同じ言葉を聞いたのです。つまり、私が強い雷雨は無くなったと感じたとき、その人はまだ少年時代で、強い雷雨を経験していたことになります。この場合は、無くなったのは、少年時代特有の自然から受ける鮮烈な印象、驚き、恐れでしょう。

(倉嶋厚『日和見の事典--倉嶋 厚の人文気象学ノート』による)

译文

(4).在我35岁左右的时候,我曾经说过:“最近,像少年时代经历的那种强烈的雷暴天气似乎消失了。”然而,当我大约60岁时,我听到了一个大约35岁的人说出了同样的话。这意味着,当我开始感觉到强烈的雷暴天气不再出现时,那个人还处于少年时代,并且正在经历着强烈的雷暴。在这种情况下,消失的应该是少年时代特有的那种对自然现象的强烈印象、惊奇和恐惧。

(摘自倉嶋厚《机会主义的词典——倉嶋厚的人文气象学笔记》)

中篇1

原文

不安は、正体がつかみきれないときほど膨らんでいく。長く引きずる。

人間だれでも、自分に都合の悪いこと、恐ろしいことは考えたくない。そういう心理が働くから、無意識のうちに問題をあいまいにして解決を保留にする。

そうして結局、いつまでも不安をダラダラと抱え続けてしまう。

逆に自分の何がどのように不安なのか、不安に思う必要があるのかどうかを把握すれば、それだけで不安は減る。

不安の正体が明確になって、これは何かしなくてはまずいと認識されれば、それは「危機感」になる。

危機感は不安と違う。危機感をもてば、行動を起こそうという意欲が湧く。さらに情報を集めて、行動計画を立てようとする。やるべきことが明確になる。だからスタートが切れるのだ。

問題は鍵となる不安は何なのかということだ。様々な不安の中から、それを特定して意識する。その不安に、思いきり光を当てて自分で正体を見極められれば、次にどうすればいいかの対策も講じられる。

(中略) 不安には、しばらく保留にしておいても大丈夫な不安もある。それがわかった瞬間、不安は、また少し減る。

こうして、自分が何をやらなければいけないかが見えてくる。やる気が出てくる。動く気になる。不安の解決策を考えながら、夢が膨らんでくることもある。

(佐々木直彦『「仕事も人生もうまくいく人」の考え方』による)

译文

不安会在我们无法完全把握其本质时膨胀开来,并且持续很长时间。

每个人都不愿意去思考那些对自己不利或令人恐惧的事情。由于这种心理作用,我们会在不知不觉中使问题变得模糊,从而推迟解决问题。

结果就是,我们会长期拖着这种不安情绪。

相反,如果我们能够明确自己为什么感到不安,以及是否真的有必要感到不安,仅仅是这种认识就能减少不安。

当不安的本质变得清晰,并且我们认识到必须采取行动时,不安就变成了“危机感”。

危机感与不安不同。有了危机感,就会激发采取行动的意愿。我们会进一步搜集信息,制定行动计划。要做的事情变得明确,从而能够开始行动。

问题的关键在于识别出哪些是核心的不安。从众多不安中,我们特定并意识到它。当我们充分照亮这种不安,自己去识别其本质时,我们就能制定出应对策略。

(中略)有些不安是可以暂时搁置的。一旦我们意识到这一点,不安就会相应减少。

通过这种方式,我们会开始明白自己需要做什么。我们会感到有动力,愿意采取行动。在思考解决不安的方法的同时,梦想也可能随之膨胀。

(摘自佐々木直彦《“工作和人生都能顺利进行的人”的思维方式》)

中篇2

原文

自分の泣いているときの表情や、笑ったときの表情をまともに見たことのある人は、まずない。

写真やビデオになれば、自然な笑いがおさめられることもあるかもしれないが、そこに映っているのは過去のそれであって、いま内側から生きている感情と重なり合うものではない。その点、鏡ならばそれを同時的に捉えられそうにもみえる。

しかし、じっさいには自分が笑っているとき、その笑っている自分の顔を見たとたん、もはや笑いつうけられなくて、さっと笑いがさめてしまうものである。泣いているときも同じである。(中略)

自分の表情を視覚的に捉えることには、そもそも無理がある。他方、他者の表情を内的に捉えることも、私たちが他者の身体を内側から生きることができない以上、不可能である。ならば他者の表情の理解はほんらい不可能なことだということになるはずだが、私たちは日頃から、表情の理解が不可能だとか、困難だとか、ほとんど思いもしない。現に私たちは他者のわずかな表情の変化にも敏感であるし、その表情の理解を土台にすることで人間関係の基本部分を成り立たせている。

表情は、ほぼ人類に共通であって、微妙な表情は別として、人種がちがっても、それを読み間違えることはまずない。含み笑いとか、苦笑い、あるいは愛想笑いとかいったものだと、同じく笑いでも文化差があって、読み間違えることがあるかもしれないが、典型的な表情に関してはまず間違わない。そうだとすれば類としての人間のなかに、表情を通して人同士わかり合うメカニズムが、個の単位を越えて存在するものと考えればならない。

(浜田寿美男『「私」とは何か』による)

译文

几乎没有人真正看过自己哭泣或笑时的表情。

虽然照片或视频有时能捕捉到自然的笑容,但那记录的是过去的瞬间,并不与当前内心的感受完全吻合。从这个角度来看,镜子似乎能够同时捕捉到这些表情。然而实际上,当我们看到自己笑时的面孔,往往就笑不出来了,笑容很快就会消失。哭泣时也是如此。(中略)

试图通过视觉捕捉自己的表情本来就是不可能的。另一方面,我们无法从内心体验他人的身体,因此也不可能真正内在地理解他人的表情。如果这样,那么理解他人的表情本来就是不可能的事情,但我们日常生活中几乎不会认为表情的理解是不可能或困难的。实际上,我们对他人微妙的表情变化非常敏感,并且以理解这些表情为基础建立了人际关系的基本部分。

表情几乎是全人类共通的,除了微妙的表情变化外,不同种族之间很少会误解。即使是含蓄的笑、苦笑或礼貌的笑等,虽然同属笑容,可能因文化差异而有所误解,但对于典型的表情,我们几乎不会弄错。如果真是这样,那么在作为人类的我们之中,必须认为存在一种通过表情相互理解的机制,这种机制超越了个体的界限。

(摘自浜田寿美男《“我”是什么》)

中篇3

原文

多くの大人は、子供よりも先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。しかしこれはウソである。彼らが知っているのは「生活」であって、決して「人生」ではない。生活の仕方、いかに生活するかを知っているのを、人生を知っていることだと思っている。そして生活を教えることが、人生を教えることだと間違えているのである。しかし、「生活」と「人生」とはどちらも「ライフ」だが、この両者は大違いである。「何のために」生活するのと聞かれたら、どう答えるだろう。

こういう基本的なところで大違いをしているから、小中学校で仕事体験をさせようといった愚にもつかない教育になる。(中略)生活の必要のない年齢には、生活に必要のないことを学ぶ必要があるのだ。それはこの年齢、このわずかな期間にのみ許された、きわめて貴重な時間なのだ。生活に必要のないことは、人生に必要なことだ。すなわち、人生とは何加を考えるための時間があるのは、この年代の特権なのである。

「人生とは何か」とは、そこにおいて生活が可能となるところの生存そのもの、これを問う問である。「生きている」、すなわち「存在する」とは、どういうことなのか。

この問の不思議に気がつけば、どの教科も、それを純粋に知ることの面白さがわかるはずだ。国語においては言葉、算数においては数と図形、理科においては物質と生命、社会においては人倫(注 2)、どれもこの存在と宇宙の不思議を知るうとするものだと知るはずだ。人間精神の普遍的な営みとして、自分と無縁なものはひとつもない。どれも自分の人生の役に立つ学だと知るはずなのだ。

(注 1)愚にもつかない:ここでは、ばかばかしい

(池田晶子「人間自身--考えることに終わりなく』による)

(注 2)人倫:人として守るべき道

译文

许多成年人认为,因为他们比孩子们先活了那么多年,所以他们更了解人生。但这其实是一个谎言。

他们所知道的只是“生活”,绝非“人生”。他们以为知道如何生活就是了解人生。并且错误地认为教授生活就是教授人生。然而,“生活”和“人生”虽然都用“life”这个词,但两者之间有着巨大的差异。如果被问到“为什么生活”,他们会怎么回答呢?

由于在这些基本问题上存在如此大的误解,才会出现像在小学和中学进行工作体验这样的荒谬教育。(中略)对于不需要考虑生活需求的年龄,他们需要学习的是生活中不需要的东西。这是这个年龄段、这个短暂时期内唯一被允许的极其宝贵的时间。生活中不需要的东西,正是人生所需要的。也就是说,思考“人生是什么”的时间是这个年龄段的特权。

“人生是什么”这个问题,实际上是在问生活成为可能的地方的生存本身。“活着”,即“存在”意味着什么? 一旦意识到这个问题的奥秘,就会明白每一门学科纯真求知的乐趣。在国语中是语言,在算术中是数字和图形,在理科中是物质和生命,在社会中是人伦(注 2),所有这些都是试图了解存在和宇宙奥秘的学科。作为人类精神的普遍活动,与自己无关的东西一个也没有。所有这些都是对个人人生有益的学习。

(注 1)愚にもつかない: 这里指荒谬可笑

(池田晶子《人自身——思考永无止境》)

(注 2)人伦: 应遵循的人道

中篇4

原文

以下は、ある芸術家が書いた文章である。

人間は動物とちがって、知的な活動、その情熱をもっている。おさなくたって、魂の衝動は強いのだ。だから子供は描きたがる。形、色にして確かめる。だが問題は自分のなかにあるものを外に突き出す、吐き出すという行為自体であって、決して出来上がりの効果ではない。

だから子供は描きおわってしまったものはより向きもしない。捨てられたって何とも思わないのだ。(中略)それを大事そうに拾い上げて、「これは面白い。」「坊やは才能がある。これをうまく伸ばせば、将来偉い画家になるかもしれない。」などと、観賞したり評価するのは、いつでも大人で、子供自身は、もし褒められても、そんなものかなと受け止めるだけであり、気にしない。

だから「子供の絵」というような言い方の、根本に何か間違えがある、と私は思う。描いたものには達しないが、「作品」ではない。その以前の、もっと根源的な何ものかなのである。

「絵」などというから、大人の「絵画作品」と混同して考えてしまう。そこにズレが起こる。大人のは見せる芸であり、商品である。はじめから観賞すること、してもらうことを目的とし、結果を予測しながら作り上げたものなのだ。

いわゆる「絵描きさん」となると、描いている間に、結果がわかっている。こうやれば、こうなる。習練(注 1)と経験によって、色やタッチ(注 2)の効果が計算できるし、生命の衝動、情熱、無目的な行動よりも、結果の方に神経が働いてしまう。出来ばえに、逆にひきずり回されているのだ。

しかも、大向こう(注 3)の気配までもすでに見すかして、……こんな趣向は喜ばれるだろう、これはちょっとやりなさいなどと意識・無意識に、そんな手応えに合わせながら仕事を進めている。評判をとり、買手がついてくれなければ食ってゆけないし、社会が許さない。生活は厳しいのだ。無償の行為というわけにはいかない。

明らかに「作品」つまり「商品」を作っているのである。

大人の作品だって、本質的には生命力こそ肝要なのだ。自分の存在を純粋に外に投げ出す、突き出すアクションの質、強さによって、猛烈な魅力になる。

私自身は、少なくともそのつもりである。よく、あなたの絵はわけがわからないと言われるが、「絵」でごさいます、というようなものは作りたくない。それ以前、そして以後のものをひたすら突き詰ける。--顔ではなく、芸術。そしてできる限り他の評価を無視したいと思うている。

(岡本太郎『美しく怒れ』による)

译文

以下是一位艺术家所写的文章。

人类与动物不同,拥有知性的活动和热情。即使不被要求,灵魂的冲动也是强烈的。因此,孩子们喜欢绘画。他们通过形状和颜色来确认事物。但问题在于将内在的东西表达出来、倾吐出来的行为本身,并非完成作品的效果。 因此,孩子们完成绘画后往往不再关注。即使被丢弃也不会在意。(中略)而大人们会捡起来,珍视地说:“这很有趣。”“这孩子有天赋。如果能好好培养,将来可能成为伟大的画家。”等等,进行观赏和评价。而孩子们即使被表扬,也只是接受而已,不会太放在心上。

因此,我认为“孩子的画”这种说法从根本上就是错误的。他们画的并不是“作品”。而是更原始、更根本的东西。 因为称之为“画”,人们往往会将其与成人的“绘画作品”混为一谈。这就产生了偏差。成人的作品是表演艺术,是商品。从一开始就是为了被观赏、被欣赏而创作的,创作时就已经预想了结果。

而所谓“画家”,在绘画的过程中,结果是已知的。通过练习和经验,可以计算出色彩和笔触的效果。比起生命的冲动、热情和无目的的行为,更多地关注结果。反而被完成作品的效果所牵引。

而且,他们甚至会考虑观众的反应,无论是有意识还是无意识,都会根据这种感觉来调整工作进度。为了获得好评,为了有买家,为了生存,社会的允许是必须的。生活是严酷的。不能是无偿的行为。

显然,他们是在制作“作品”,也就是“商品”。

即使是成人的作品,其本质也是生命力最为重要。通过纯粹地将自我投射出去、表达出去的行为的质量和强度,可以产生巨大的魅力。

我个人至少是这样打算的。经常有人说我的画难以理解,但我并不想创作那种“画”。我追求的是超越之前和之后的东西。--不是面孔,而是艺术。并且,我希望尽可能地无视其他评价。

(摘自冈本太郎《美而愤怒》)

长篇

原文

本というのは、人間と同じようなものだ。一律の価値によって優劣を決めることはできない。人気者がいるのと同じように、ベストセラーがある。嫌われ者がいるように、誰からも手に取られない本もある。だが、どれもがそれぞれの価値を持っている。それを求めている人の手に求めているときに渡れば、それは良書になる。

それゆえ、私はインターネットの書評サイトなどで、まるで自分を神であるかのように本の優劣を断定しているものには微かな抵抗を感じる。もちろん、書評をするのは悪いことではない。本を批判したりほめたりするのも、もちろん大事なことだ。だが、あくまでもそれは、その人の知識と関心と人柄によっての判断でしかない。つい神の立場でものを言いたくなる気持ちはわからないでもないが、それはあまりに傲慢というものだろう。

私の本も、インターネットの書評サイトでかなり叩かれているものがある。それはそれでやむをえないと思っている。ある程度売れると、それをけなしたがる人間がいるものだ。本をけなすと、自分が著者よりも偉くなったような気がするのだろう。私自身も本を書くようになる前、いや、正直に言うとある程度売れる本を出すようになる前、他人の本をずいぶんけなしたものだ。

ただきわめて心外なのは、ないものねだりをしている評があまりに多いことだ。たとえば、私はある参考書を出している。その趣旨としていることは、「大学の小論文試験に何とか合格できるだけのレベルの小論文が書けるようにするため、最低限これだけの知識は持っていてほしい」という知識を整理した参考書だ。だから、私はその本の中では、敢えて難しいことは書いていない。ところが、その参考書を酷評する(注)書評がある。そして、その評の中には「この本を読んでも、かろうじて合格するくらいの力しかつかない」と書かれている。

私は、まさしくかろうじて合格するくらいの力をつけるためにその本を書いているのだ。かろうじて合格すれば、その本は最高の良書だろう。私がそのような意味で敢えてカットしたことを取り上げて、それが書かれていないからと批判されては、こちらとしては困ってしまう。

そのような身勝手な書評がなんと多いことか。知識のある人間が入門書を幼稚すぎるなどとけなし、知識のない人間が入門書をわかりにくいとけなす。しかし、それは単に自分の背丈にあっていない本を求めただけのことに過ぎない。きちんと自分の背丈にあった本を探して買うのが、読者の務めだと、私は思う。

本について語るからには、あらゆる本に愛情を持っべきだと私は考えている。そうしてこそ、本を批判する資格を持つと思うのだ。

(樋口裕一『差がつく読書』による)

(注)酷評する:ひどく厳しい評価を下す

译文

书籍就像人一样,不能用统一的价值标准来判断优劣。就像有人气的人一样,有畅销书;就像有人讨厌的人一样,也有无人问津的书。但是,每本书都有其各自的价值。当一本书落在寻求它的读者手中时,它就成了好书。

因此,当我看到互联网上的书评网站上有人像自己是神一样断定书籍优劣时,我会感到轻微的抵触。当然,写书评本身不是坏事。批评或赞扬书籍当然很重要。但那终究只是基于个人的知识、兴趣和性格的判断。我理解那种想要站在神的位置上说话的冲动,但这实在是过于傲慢了。

我的书在互联网书评网站上也有一些被严厉批评的。我认为这在一定程度上是不可避免的。一旦书卖得不错,就总会有人想要贬低它。批评别人的书,似乎能让人感觉自己比作者更伟大。在我开始写书之前,说实话,直到我开始出版一些相对畅销的书之前,我也曾狠狠批评过别人的书。

但最令我感到意外的是,有些评论者提出了不切实际的要求。例如,我出版了一本参考书。这本书的目的是整理出“为了能够勉强通过大学小论文考试,至少需要掌握这些知识”的内容。因此,在这本书中,我故意没有写那些难以理解的内容。然而,有些书评严厉批评了这本参考书。并且,其中有些评论说:“即使读了这本书,也只能勉强及格。”

我写这本书的目的正是为了让人勉强及格。如果能够勉强及格,那么这本书就是最好的好书了。我故意省略的内容被拿出来批评,这让我感到困惑。

有多少这样的自私的书评啊。有知识的人批评入门书太幼稚,没有知识的人批评入门书难以理解。但这只不过是他们没有找到适合自己水平的书罢了。我认为,读者的职责是找到并购买适合自己水平的书。

我认为,谈论书籍时应该对所有的书都怀有爱心。只有这样,才有资格去批评书籍。

对比

原文 A

世界遺産への関心が高まるのは喜ばしい。各地で登録を目指す動きも活発化している。新聞をはじめとしたメディアがそれらを報じる機会も増えた。ただ、いつも気になるのは、そこに「地元では観光振興に結びつくのを期待している」といった類の言葉が、必ずと言ってよいほど目につくことだ。

私としては、観光・経済効果の拡大を否定はしないし、文化財保護との両立はできると考えている。しかし、近年の状況を眺めると、遺産の保護という基本理念が、あまりにも置き去りにされてしまってはいないだろうか。

(中村俊介『世界遺産が消えてゆく』による)

B

日本では映像や書籍など、さまざまなメディアで世界遺産を商品化し、パッケージ・ツアーが数多く組まれ、観光産業と深く結び付く。だが、それは本当に建築や自然を愛し、歴史への理解を深める人間を増やしているのだろうか。

(中略)

世界遺産であるかどうかにかかわらず、建築の価値は個別に判断すればいい。人間も肩書きだけで、すべてを理解できるわけではない。世界遺産に認定されたからといって、株のように、建築の価値が上昇するわけではない。もちろん、観光資源として巨額の富をもたらすだろうが、モノとしては同じままである。

私が気になるのは、世界遺産だけを特別視するあまり、逆にそれ以外のものはがんばって保存しなくてもいいという風潮を助長するのではないかということだ。

(五十嵐太郎 「建築はいかに社会と回路をつないでいくのか」による)

译文

A

人们对世界遗产的关注度上升是令人高兴的。各地争取世界遗产注册的活动也变得活跃起来。包括报纸在内的各种媒体对这些事件的报道机会也增加了。然而,我总是注意到,几乎总是会有这样的言论:“当地人期待这将促进旅游振兴。”

我个人并不否认扩大旅游和经济效益,我认为文化财产保护和这两者是可以共存的。但是,观察近年来的情况,难道不是遗产保护这一基本原则被过分忽视了吗?

(中村俊介《世界遗产正在消失》)

B

在日本,通过各种媒体将世界遗产商品化,包装了许多旅游套餐,与旅游产业紧密相连。但是,这真的增加了对建筑和自然的热爱,加深了对历史的理解吗?

(中略)

无论是否是世界遗产,建筑的价值应该单独评估。人类也不能仅凭头衔就理解一切。世界遗产的认定并不会像股票那样提升建筑的价值。当然,作为旅游资源可能会带来巨大的财富,但在本质上,它仍然是相同的。

我所担心的是,过分强调世界遗产的独特性,会不会反而助长了一种风气,认为除了世界遗产之外的其他东西就不必努力去保护了。

(五十嵐太郎《建筑如何连接社会与回路》)

本文作者:yowayimono

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