原文
(1)無駄なものを早めに見極め、優先度をつけ、いかにスピーディに仕事をこなしていくか。それが賢く成果を出す方法だ。目の前の先輩たちも、そうやって働いている人も多いのではないかと思います。
でも、そうした人たちの問題点は、仕事の判断軸が自分になるということです。結局自分が効率的に働けるか、自分が求められている仕事量を時間内にこなせるかが最大の判断軸になっていくのです。
すると、できる範囲のこと、無理のないことに収まっていってしまうのです。
(高橋克成「上司がさっぱりわかってくれない」と思っているあなたへ」による)
译文
(1)迅速识别并淘汰无用之物,设定优先级,如何高效地完成工作,这是聪明产出成果的方法。我想,眼前许多前辈和那些以这种方式工作的人,都是这样做的。
但是,这些人的问题在于,工作的判断基准变成了自己。最终,是否能高效工作,是否能在规定时间内完成被期望的工作量,变成了最大的判断基准。
这样一来,人们往往会局限于自己能力范围内、没有困难的事情上。
(摘自高桥克成《如果你觉得上司完全不理解你》)
原文
2015年12月1日
社員各位
経理部
年末年始休業に伴う出張経費精算書類の提出について
出張経費精算書類の12月の受付は月末ではなく25日(金)までとなります。25日までに受理した書類については、1月末日に各人の個人口座に振込みます。25日を過ぎたものについては、2月末日の振り込みとなりますのでご了承ください。領収書の添付漏れや記載ミスへの対応も業務再開後となりますので併せてご了承ください。
なお、出張経費精算書類の1月の受付は年末年始休業明けから再開し、締め切りは通常通り月末となります。
以上
译文
2015年12月1日
致全体员工
财务部
关于年末年初假期期间出差费用结算文件提交的通知
请注意,12月份的出差费用结算文件收件截止日期并非月末,而是12月25日(星期五)之前。我们将在12月25日之前受理的文件,在1月末通过银行转账至各位个人账户。对于12月25日之后提交的文件,我们将安排在2月末进行转账,请您谅解。
同时,请知悉,对于遗漏附上收据或填写错误的情况,我们将只能在业务恢复后进行处理,请您也一并谅解。
另外,关于1月份的出差费用结算文件,将在年末年初假期结束后开始受理,并且截止日期将恢复为通常的月末。
以上。
原文
コンピュータ化の進行とともに、記憶力のみならず、計算力とか、情報整理力とか、いくつもの脳の雑用と思われている作業をコンピュータに負わせるようになった。肉体労働だけでなく、精神労働の負担からも人間を解放し、持てる力をなるべく創造的な仕事に振り向けようというのだろう。しかし、創造力とは何だろう。記憶力や情報整理力など脳の基礎体力の上に成り立つもののような気がしてならないのだ。
(米原万里「心臓に毛が生えている理由」による)
(注)コンピュータ: 電脑
译文
随着计算机化的进展,不仅仅是记忆力,连计算能力、信息整理能力等许多被认为是大脑杂务的工作都交给了计算机。这不仅解放了人类从事体力劳动,也减轻了精神劳动的负担,目的是尽可能将人的能力转向创造性的工作。然而,什么是创造力呢?我不禁觉得,创造力似乎是建立在记忆力、信息整理能力等大脑基础能力之上的东西。
(摘自米原万里《心脏上为何会长毛》)
(注)计算机: 电脑
原文
(4)誰にとっても、感情とどう付き合うかということはなかなか厄介な問題である。感情とうまくつきあうということは単に社会的場面での感情表現をうまくコントロールするということではない。むしろ、感情の豊かさや複雑さを通して、またしばしば測りがたく統御しがたい感情の動きを通して、生きることを味わい、人生を活性化しながら、しかも感情の力に支配されないということであるだろう。
(井上俊・船津衛「自己と他者の社会学」による)
(注):統御する:思いどおりに扱う
译文
(4)对于每个人来说,如何与感情相处是一个相当棘手的问题。与感情相处得好并不仅仅是巧妙地控制社会场合中的情感表达。更确切地说,是通过感受情感的丰富性和复杂性,以及通过那些常常难以测量且难以控制的情感波动,来品味生活,激活人生,同时又不被情感的力量所支配。
(摘自井上俊、船津卫《自我与他人的社会学》)
(注):统御: 按照自己的意愿来处理
原文
(1)以下は、ある映画監督が書いた文章である。
勝負を続けている限りは、負けは確定しない。勝ったり負けたりしながら、人生は続いていく。ただ、勝負を続けていくうちにだんだん勝負勘はついてくるし、くだらない失敗はしなくなってくる。スキル (注1)が上がってくるからだ。
映画の話で書けば、僕は映画制作のシステムそのものに、大負けをしない仕掛けを組み込んだ。それは、①「他人と仕事をする」ということだ。他人という客観性を映画制作の現場に持ち込めば、独りよがりな (注2)作品に突っ走ることを彼らが防いでくれる。それに僕は優秀なやつとしか組まないから、僕ひとりで何もかも考えるよりずっと映画の質は高くなるのだ。
勝負を続けていると、思わぬ成果が飛び込んでくることがある。かつて負けたと思い込んでいた勝負に、後になって勝ってしまうことがあるのだ。僕の例で言えば、愚直 (注3) に映画を撮り続けて、ある程度の評価を得るうちに、かつてボロクソに言われた (注4)作品に光が当たり、再評価されるようなこともある。 (中略)
だから②絶対に勝負を読めてはいけない。ただし、常勝を狙うのは禁物だ。勝負をしなければ勝つことはできないが、必ず勝とう、絶対に失敗しないようにしようと意気込んだら、緊張感や気負いや、そんな余計なものを背負い込んで結果的に負けてしまう。
(押井守「凡人として生きるということ」による)
(注1)スキル:技術
(注2)独りよがりな:ここでは、自己満足の
(注3)愚直に:ここでは、まじめに、こつこつと
(注4)ボロクソに言われる:ここでは、ひどい評価を受ける
译文
(1)以下是一位电影导演所写的文章。
只要持续竞争,失败就不会成为定局。在胜与负之间,人生继续前行。只是,在持续竞争的过程中,你会逐渐培养出对胜负的直觉,减少无谓的失败。这是因为技能(注1)在提升。
以电影为例,我在电影制作系统本身中植入了不致大败的机制。那就是,①“与他人合作工作”。将他人的客观性带入电影制作现场,他们可以防止你走向自我满足的作品。而且因为我只与优秀的人合作,所以比起我一个人什么都想,电影的质量会大大提高。
在持续竞争中,有时会意外地获得成果。有些曾经认为失败了的竞争,在后来可能会变成胜利。以我的例子来说,就是坚持不懈地拍摄电影,获得一定程度的评价后,那些曾经被批评得一无是处的作品可能会受到关注,得到重新评价。 (中间省略)
因此,②绝不能认为自己已经掌握了胜负。但是,追求常胜也是禁忌。如果不参与竞争,就无法获胜,但如果你坚持一定要赢,一定要避免失败,那么你就会背负上紧张感、过度的压力,最终反而可能导致失败。
(摘自押井守《作为凡人活下去》)
(注1)技能:技术
(注2)自我满足的:这里指的是一意孤行的
(注3)愚直地:这里指的是一丝不苟地、勤勉地
(注4)被批评得一无是处:这里指的是受到严厉的评价
原文
(2)環境が高速化しても、私たちの神経的な伝達速度や知覚認知の処理時間は変化しないことから、人間が一時にできる認知的課題の数もそれほど変わらないことが推察される。このことは、様々な情報が手に入り、やりたいこと、したいことそして実際にできる可能性が高まったとしても、①実際にできる事柄の数がそれほど増えるわけではないことを示唆している。
もちろん、技術革新によって、一つの事柄をやり遂げるまでに要する時間は大いに短縮された。筆者自身、パーソナルコンピュータを使って論文などを書くようになって、論文一本あたりにかける時間と労力はずいぶん減少したと思う。特に原稿を清書したり作図したり、という手作業の段階に要する時間はかなり減った。 しかし、そうはいっても、論文を書く際に論理展開をまとめるのに要する時間はそれほど短縮されるわけではない。考えるためには、どうしてもそれなりの時間が必要だ。 (中略)
人間が一つのことをやり遂げるにはどうしても一定の時間がかかる。その時間が技術革新や経験、学習によって、増えた欲望を満たすのに必要な時間以上に短縮されないとしたらどうなるだろうか。当然、潜在的な可能性に基づいて肥大する欲望のうち、実際に満たされるものは一部のみということになる。この場合、やりたいこと、やれるはずのことは数多くあるのに、なかなかそれが実現できない②ジレンマが生じる。
そうなると、むしろ、できる事柄が少なかったころよりも時間が足りず、忙しく、やりたいことができないという感覚(一川識「大人の時間はなぜ短いのか」による)が強くなっているかもしれない。
译文
(2)即便环境变得高速化,由于我们神经传递速度和感知认知处理时间没有变化,人类一次能够处理的认知任务数量也不会有太大改变。这意味着,尽管我们可以获得各种信息,想做的事情、愿意做的事情以及实际能够做到的可能性增加了,但实际上能够做到的事情数量并不会因此而大幅增加。
当然,技术革新大大缩短了完成一件事情所需的时间。就我个人而言,自从使用个人电脑写作论文等文件以来,我认为完成每篇论文所需的时间和精力大大减少了。特别是减少了许多手工作业阶段,如清抄稿件和绘图等所需的时间。 然而,即便如此,撰写论文时整理逻辑结构所需的时间并没有显著缩短。思考毕竟需要一定的时间。 (中间省略)
人类完成一件事情总是需要一定的时间。如果这个时间没有因为技术革新、经验和学习而缩短到足以满足增加的欲望所需的时间,那么会发生什么呢?显然,基于潜在可能性而膨胀的欲望中,实际能够满足的只有一部分。在这种情况下,尽管想做的事情、能够做的事情有很多,但很难实现,就会产生一种②矛盾感。
这样一来,可能感觉时间更加不够用,更加忙碌,无法做自己想做的事情,这种感觉(一川识《为什么成人的时光如此短暂》中提到)可能会变得更加强烈。
原文
(3)類人猿(注1)の四足步行と人間の二足歩行を比べると、時速四kmくらいの速度で歩くと、二足歩行のほうがエネルギー効率がいい。しかも長く歩けば歩くほどエネルギーの節約率が高くなる。すなわち、初期の人類は長い距離をゆっくりした速度で歩く必要性に迫られて、直立二足歩行を採用したと考えられるのだ。これは初期の人類が徐々に熱帯雨林を出ようとしていたこととぴったり符合する(注2)。熱帯雨林の外では果実が散在していて、広い範囲を探し回る必要がある。これを可能にする歩行様式として、二足で歩くことが有利になった可能性がある。
しかし、長距離を歩くことになると群れの全員がまとまって移動するのは困難になる。子供や身重(注3)の女性、老人など速い速度で長距離を歩くことが難しい仲間がいる。そのため、体力のある男たちが少数のグループを組み、広く歩き回って食物を集め、それを女や子供たちのもとへ持ち帰っていっしょに食べたのではないかと思われるのだ。これが食物共有仮説である。だが、サバンナ(注4)に出たサルたちは二足にならなかった。なぜ人間だけがなったのか。それは、サバンナに出たパタスザルやアスピスヒヒ、マントヒヒたちはオスがメスより格段に大きくなり、長い犬歯を発達させて群れの防御をするようになったからである。しかも胃腸の強い彼らは人類ほど広い範囲を歩き回って食物を採す必要はなかった。一方、人類の祖先は男が大きくなるどころか、性差が小さく、犬歯も縮小して武器としては使えなくなっている。これは人類の男たちが捕食動物と戦うよりも、その目を避けながら食物を探し歩いていたことを物語っている。
(朝日新聞2010年8月17日付夕刊による)
(注1)類人猿:生物学上、最も人に近いサル類
(注2)符合する:ぴったり合う、一致する
(注3)身重:妊娠中
(注4)サバンナ:熱帯地方に見られる草原
(注5)犬歯:ここでは、特に鋭い歯
译文
(3)比较类人猿(注1)的四肢行走和人类的两足行走,当以每小时四公里的速度行走时,两足行走在能量效率上更为优越。而且,行走的距离越长,能量节省率就越高。也就是说,早期人类迫于需要长时间以较慢的速度行走较远的距离,从而采取了直立两足行走的方式。这与早期人类逐渐离开热带雨林的情况非常吻合(注2)。在热带雨林之外,果实散布在广阔的区域,需要四处寻找。两足行走作为一种行走方式,可能变得有利,因为它使得能够覆盖更广泛的区域。
然而,当需要长距离行走时,整个群体一起移动变得困难。孩子们、孕妇、老人等难以快速长距离行走的成员存在。因此,体力较好的男性可能组成了少数群体,广泛地行走以收集食物,并将其带回给女性和孩子们一起食用,这被认为是食物共享假说。但是,走出草原的猴子们并没有变成两足行走。为什么只有人类变成了这样?这是因为,例如,走出草原的帕塔斯猴、阿斯皮斯猴和曼托猴,雄性比雌性大得多,发展出了长长的犬齿来保护群体。而且,它们的消化系统强健,不像人类那样需要广泛地走动寻找食物。另一方面,人类的祖先并没有变得更大,性别差异较小,犬齿也缩小了,不再适合作为武器使用。这表明,人类的男性们并不是与捕食动物战斗,而是在避开它们的同时寻找食物。
原文
以下は、歴史学者について、歴史小説家との比較を中心に書かれた文章である。
歴史学では、史実の究明はもちろんのこと、新しい歴史像を提示する時にも史料(注1)的根拠が必要です。そして、この史料的根拠を基盤とするがゆえに、歴史学者の歴史観は、相互に批判可能なものです。これは、物理や化学といった自然科学の世界で新理論を展開する場合に、その論拠、論理を他の学者にも検証可能な形で提示しなければならないことと同じです。
しかし、小説にこうした論証を求めるのは無理というものです。最近は小説家に歴史研究者同様の姿勢を求める向きもあるようですが、これは筋違いとしか思えません。やはり、歴史研究と歴史小説は、そもそも目的も手段も異なるものなのだと言わざるを得ません。
また、あるいは、次のような話が参考になるでしょう。
ある時、理学部の天文学(注2)の先生に、「どうして新星や小惑星などの新天体を発見する人には、アマチュアの天文学が多いのですか」と聞いたことがありました。新聞でも報じられるような天体現象の発見に、意外と専門研究者が少ないことが気になっていたからです。
すると天文学の先生は、「天文学の先端では、新星などの発見よりは、大きな電波望遠鏡を使って、ある一定の方向から地球に届く宇宙からの電波情報を継続的に受け取り、その数値の分析によって宇宙の大きさを推測したり、宇宙の成り立ちを究明したりしているのです」と教えてくれました。 (中略)
歴史学者と歴史小説家の違いも、これに近いものがあります。歴史小説家を歴史のアマチュアとするつもりはありませんが、同じく歴史を扱いながらも、その立場は違うものだと言えるでしょう。歴史小説では、誰もがよく知っている人物や事件を扱って小説にすることが多いようですが、歴史研究ではむしろ誰も知らないような人物や事件を入り口として史実を究明することがほとんどです。また、政争に勝ったかというような政治のダイナミックな人間の動きよりは、制度的な政治システムの変遷を追究する方が研究手法としては主流です。そのため、歴史学者が世間一般の歴史ファンを驚かせるような新説を立てる、というようなことは、稀なこととなるのです。
もちろん、天文学者であれば研究機関に属しているようが新星に無関心でないのと同様に、歴史研究者もメジャーな歴史トピックに関心がないわけではありません。しかし、一見地味な事例研究を積み重ねることによって、それまでの通説を修正する新しい視点が見いだされていくことを、研究者は知っています。つまり、一足飛びに(注3)通説を覆そうとし、特定の視点から史料を読むような真似(注4)は禁物なのです。
(山本博文「歴史をつかむ技法による」)
(注1)史料:歴史を研究するための文献や遺物
(注2)天文学:宇宙と天体について研究する学問
(注3)一足飛びに:ここでは、手順を無視して一気に
(注4)真似:ここでは、行動
译文
以下是一篇关于历史学家的文章,主要以与历史小说家的比较为中心。
在历史学中,无论是探究史实还是提出新的历史观点,都需要基于史料(注1)的证据。正因为历史学家的历史观是建立在这样的史料证据基础上,它们是可以被相互批判的。这与自然科学领域,如物理和化学,在提出新理论时必须以其他学者能够验证的形式展示其论据和逻辑是相同的。
然而,要求小说具备这样的论证是不合理的。尽管最近似乎有人希望小说家持有与历史研究者相同的态度,但这似乎并不合适。毕竟,历史研究和历史小说在目的和手段上本质上是不同的。 此外,或许以下的故事可以作为参考。
曾经,我问过理学部的天文学(注2)教授:“为什么发现新星和小行星等新天体的人中,业余天文学家比较多?”因为我注意到,虽然像报纸上报道的那样,天体现象的发现并不总是由专业研究者完成。
然后,天文学教授解释说:“在天文学的前沿,比起发现新星等,更多的是使用大型无线电望远镜,持续接收来自特定方向的宇宙电波信息,并通过数值分析来推测宇宙的大小或探究宇宙的形成。” (中间省略)
历史学家和历史小说家之间的差异与此类似。我并不是想将历史小说家视为历史的业余爱好者,但尽管两者都涉及历史,他们的立场是不同的。历史小说通常处理的是众所周知的人物和事件,但历史研究大多从不为人知的人物和事件入手,以探究史实。此外,与政治斗争的动态相比,研究政治制度变迁的方法更为主流。因此,历史学家提出让一般历史爱好者感到惊讶的新观点是罕见的。
当然,就像天文学家即使属于研究机构也不会对新星漠不关心一样,历史研究者对主要历史话题也不是没有兴趣。但是,研究者知道,通过积累看似不起眼的案例研究,可以发现修正以往通说的新视角。也就是说,试图一蹴而就地颠覆通说,或者从特定视角解读史料的行为是不被允许的。
原文
山の風景画は、世の中にいくらでもある。日本画にしろ洋画にしろ、古今東西あまたの(注1)画家たちが、その題材に「山」を選んでいる。モチーフとしての山の意味するものは様々だろうが、個人的にはそれらに魅力を惹かれることはなかった。
なぜか
一般的な登山者が山を眺めた時の感慨は、おおむね似通っている。それは、雄大さ、厳厳さ(注2)、あるいは優しさといったステレオタイプな観点から山を賛美し、その風景を自分の心の展示箱に納めて「いい思い出」にしてしまう。そして山岳画や山岳写真の作家たちの多くもまた、似たようなイメージを印画紙やキャンバスなどに再現して、狭い市場の中で再生産している例が少なくない。
だが、山に登る者の心に刻印(注3)される山の風景は本来限定的なものではなく、確定しえない動的な現象として記憶されてもよいのではないだろうか。見る者の心の中で定着される山のイメージは、そしてその表現は、もっと多様であるべきだろう。
海に対して、変転をくり返す「海」に対して、動かざるものの象徴として、「山」が引き合いに出されることもある。はたして本当に山は動かないのか。(中略)
登山者としてこう思う。山は動いていると。それは、地殻(注4)変動や火山の噴火など大規模なものだけではない。遠目には同じように見えても、風に吹かれて砂塵は舞い、山腹を覆う植物たちは陽光を浴びて繁茂し、渓流はその谷の深さを日々深く削り、刻一刻と変化しつづけている。そういった微細な物理的変貌、小さな生命たちの死減と再生が瞬時も止まることのない動きが、「山」なのである。
都市の風景は近代以降多様な都市論の対象となってきたが、本来、多様性に富んでいるはずの山という場所を表現するイメージが、なぜこれほどまでに単一的なのか。
それは、山という変転する自然から、都市部の生活者の生活が乖離してしまったことに、原因を求めることができるかもしれない。山の変化に気づくほど観測していないから、その変化にも気づかない。
何十年も山で暮らしてきたような画家でさえも、その表現は先述した域を出ることは稀だ。思らに、そういう者は都市生活者とは反対に、表現への憧れが先に立ち、山の実相(注5)を表現しえていないのかもしれない。
(志水哲也編「山と私の対話」による)
(注1): あまたの: 数多く
(注2): 峨厳さ: 厳しさ
(注3): 刻印する: ここでは、刻む
(注4): 地殻: 地球の表面部
(注5): 実相: 本当の姿
译文
山的风景画在世上比比皆是,无论是日本画还是西洋画,古今中外的许多画家都选择“山”作为他们的题材。山作为主题可能意味着很多东西,但就我个人而言,并没有被它们所吸引。
为什么?
一般的登山者在观赏山景时的感受大致相似。他们从雄伟、庄严或温柔等刻板的角度赞美山,并将那风景纳入自己心中的展示箱,变成“美好的回忆”。而且,许多山岳画和山岳摄影的作者也往往再现类似的景象,在狭窄的市场中重复生产。
然而,登山者心中铭记的山景本不应是有限的,它应该作为不确定的动态现象被记忆。观赏者心中定格的山的形象,以及其表达方式,应该更加多样化。
与不断变化的“海”相比,“山”有时被当作不变的象征。但山真的不动吗?(中略)
作为登山者,我认为山是在动的。这不仅仅是指地壳变动或火山爆发这样的大规模变化。即使远观看似不变,风中飞舞的尘土、沐浴阳光而繁茂的山腰植物、每天都在加深谷底的溪流,都在不断地变化。这些微小的物理变化,以及生命体的消亡与再生,一刻不停地进行着,这才是“山”的本质。
都市风景自近代以来一直是多样的城市论的探讨对象,但原本应该充满多样性的山这一场所,其表现出来的形象为何如此单一呢?
这可能是因为山作为变化的自然,与城市居民的生活已经脱节。因为没有密切关注山的变化,所以对其变化也视而不见。
即使是那些在山中生活了数十年的画家,他们的表达也鲜少超出前述的范围。或许,这些画家与城市居民相反,他们对表达的渴望先行,而未能表达出山的真实面貌。
原文
A
現在の若者世代は、「車離れ」などの言葉に象徴されるように消費に対して消極的な世代だと捉えられることが多い。高級車やブランド品などかつて若者が憧れたものに見向きもしない若者が増加しているという。要因の一つとしては、収入が少なく未来に希望が持てないために簡約志向の若者が増えていることがあると言われているが、生まれたときから多くのものに囲まれて育ったおかげで、ものそのものに対する欲求が低いことも挙げられるだろう。
とはいえ、そのような若者たちも全く消費しないわけではない。彼らは、単なるものだけではなく、人とのつながりや体験を共有するためにお金を使うのだ。
B
若者の消費実態を俯瞰(注1)すると、今の若者は、デフレや流通環境の進化による消費社会の成熟化、情報通信をはじめとする技術進化の影響を受けて、バブル期(注2)の若者よりもお金をかけずに多様な商品・サービスを楽しめる環境にある。安価で高品質な商品・サービスがあふれ、娯楽も多様化していることで、選択できる対象も増えている。こういった変化によって、今の若者では消費に対するモノサシが変わり、「クルマ」や「高級ブランド品」といったバブル期の若者が欲していたものへの興味関心が相対的に薄れているのだろう。
つまり、「若者はお金を使わない」わけではなく、お金を使わなくて済むようになり、価値観の変化により欲するものが変わってきている。
(久我尚子「若者は本当にお金がないのか?--統計データが語る意外な真実」による)
(注1)俯瞰する:ここでは、全体を見る
(注2)バブル期:1980年代後半から1990年代初頭の、日本の景気が非常によかった時期
译文
A
现在的年轻一代,常被看作是对消费持消极态度的一代,正如“车离”这样的词语所象征的那样。越来越多的年轻人对曾经令人向往的豪车和名牌产品不再感兴趣。其中一个原因是,由于收入较少和对未来的希望不大,导致趋向简约生活的年轻人增多,但同时,由于他们从出生起就被许多物品所包围,对物品本身的欲望可能也较低。 尽管如此,这些年轻人并非完全不消费。他们愿意为与人建立联系和共享体验而花钱。
B
观察年轻一代的消费现状,现在的年轻人处于消费社会成熟化和技术进步(如信息通信技术)的影响下,与泡沫经济时期的年轻人相比,他们能够以较少的花费享受更多样化的商品和服务。市场上充斥着价格低廉且高质量的商品和服务,娱乐方式也变得多样化,可供选择的对象增加了。
由于这些变化,现在的年轻人在消费时的价值观发生了改变,“汽车”和“高档品牌商品”等泡沫经济时期年轻人所渴望的东西,其兴趣和关注相对减少了。
因此,并不是“年轻人不花钱”,而是他们变得不需要花费太多钱,价值观的变化导致他们渴望的东西发生了改变。 (摘自久我尚子《年轻人真的没有钱吗?--统计数据显示的意外真相》)
(注1)俯瞰:在这里指全面观察 (注2)泡沫期:指的是1980年代后期到1990年代初,日本经济非常繁荣的时期
本文作者:yowayimono
本文链接:
版权声明:本博客所有文章除特别声明外,均采用 BY-NC-SA 许可协议。转载请注明出处!