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2024-09-09
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短篇1
短篇2
短篇3
短篇4
中篇1
中篇2
中篇3
中篇4
长篇1
对比

短篇1

原文

(1).大人になっても、味覚は変わり続ける。二十代の血気盛んな頃、すき焼き鍋などを囲むと、肉ばかり食べている私を見て、「私たちはもう沢山。年をとると、キノコや野菜が一番おいしい」などと半ば私を、半ば自分自身を論ずるかのように言う年長者がいた。なるほど、私も、最近では肉の味のしみた野菜やキノコがおいしい。一方で、肉も相変わらず食べる。年長者だって、肉を食べなくなるわけではない。

译文

(1).即使长大成人,味觉也会持续变化。在我二十多岁血气方刚的时候,围着寿喜烧锅,我只顾吃肉,那时有年长者看着我,半是对我、半是对自己说:“我们已经吃够了。年纪大了以后,蘑菇和蔬菜才是最好吃的。”的确,最近我也觉得肉汁浸透的蔬菜和蘑菇很美味。另一方面,我还是照常吃肉。年长者们也不是不吃肉了。

(茂木健一郎《食的クオリア》)

短篇2

原文

(2).相手を思いやる気持ち、これも、「あいさつ」の心に違いありません。先年、アフリカへ行ったとき、タンザニアで聞いたことですが、現地の人たちが道で知人とあいさつを交わすとき、お互いに家族の安否をたずねますが、たとえ自分の家族に病人がいても、それを口に出さないのが暗黙のルールになっているのだそうです。相手の気持ちに負担をかけまいとする心からです。

译文

(2).关心对方的心情,这无疑也是“问候”的一种表现。前几年我去非洲的时候,在坦桑尼亚听说,当地人在路上遇到熟人打招呼时,会互相询问家庭成员的安好,但即便自己的家人中有病人,也不会提及,这已经成为一种不成文的规则。这是出于不想给对方带来心理负担的考虑。

(川崎洋『ことばのカ』)

短篇3

原文

(3).毎年、花の種を蒔いたり、球根を植えたりする季節が近づくと、種苗を扱う農園から、色刷りのカタログが送られてくる。私には植物を実際に取り寄せて植える土地などはないから、それを眺めて空想庭園を楽しむのである。しかし、それらの誇らしげに咲いている花の見合い写真を次々に見ていくと、連中 (注1)が何となくある傾向を有していることに嫌でも気がつく。つまり、すべての花を「品種改良」によって、より大輪 (注2)にし、そして何でもかでも八重咲 (注3)に造り替えてしまおうという、人間の趣味と努力と一種の意地がそこに反映しているのである。

译文

(3).每当临近播种花种或种植球根的季节,那些经营种子和苗木的园艺中心就会寄来彩色的目录。因为我并没有实际种植植物的土地,所以我只能通过观赏这些目录来享受想象中的花园。然而,当我继续翻看那些自豪地绽放的花朵的照片时,我不禁注意到它们似乎都有一种共同的趋势。也就是说,所有的花都通过“品种改良”变得更大型,而且无论什么花都被努力地改造成了重瓣花(注3),这反映了人类的偏好、努力和一种固执的意志。

(奥本大三郎『虫の宇宙誌』)

短篇4

原文

(4).生きものは危機と遭遇しそれを乗り切ることで進化してきました。人間社会も同じです。環境変化による影響を受けにくくするため、私たちの祖先は集団生活を始め、都市を築き文明を育ててきました。協調が社会の基本にあります。文明の初期段階では、生き延びるため、皆が協調します。しかし、生存が既定のものと思うようになると、自分さえよければいいという自己利益の最大化に走ります。結果は滅亡です。

译文

(4).生物在遭遇危机并克服它们的过程中进化。人类社会也是如此。为了减少环境变化的影响,我们的祖先开始了集体生活,建立了城市并培养了文明。社会的基础在于协调合作。在文明的早期阶段,为了生存,每个人都相互协作。然而,一旦人们开始认为生存是理所当然的,他们就会追求只顾自己的最大利益。这样的结果是灭亡。

(日本经济新闻2010年3月8日朝刊)

中篇1

原文

(1).定年に備えた企業の研修資料に「自分」-「仕事」=?>とあるのを見て、会社一筋に働いてきた人には厳しい設問だなあ、と思ったことがある。 事実、会社人間だった大阪の友人はこの設問に「ゼロや」と苦笑して、定年後の近況を話す。 「女房が出掛けようとすると、ワシ (注) も行くと言うもんやから、すっかり嫌がられてるよ」 こういう定年亭主を「恐怖のワシも族」と言うのだそうだが、今やさそかし①「ワシも族」がはびこっていることだろう と思いきや、ニッセイ基礎研究所の「定年前・定年後」という本にこんな調査結果が収められていた。 数字は省くが、仕事に生きがいを持っていた人のほうが、そうでない人より定年後の社会活動にもずっと生きがいを感じ ているという内容で、要するに、会社人間ほど定年後も意欲的という分析だ。 彼らの社会活動の生きがいは、交友関係の広がりによって生まれているようで、植木職人になったり、NPOやボランティア、 地域活動に携わっている元銀行員をはじめ、多種多様なゲ-スがいるり紹介されている。 以前、あれは有力銀行の支店長で歩ったか、定年退職した途端、年収状も激減するなど一変した状況に喪失感を覚えて、 自ら命を絶ったという話を聞いたことがある。 これなどは極端なケースだとしても、会社のために頑張る価値観は、社会のために頑張る価値観と合致するかもしれない>と分析される先の調査結果などは、会社人間の「その後」に②新しい視点をもたらすものだろう。 (近藤勝重「しあわせのトンボ:会社人間の『その後』」2007年11月14日付毎日新聞夕刊による) (注)ワシ:わたし

译文

(1).在为退休准备的企业培训资料中看到“自己”-“工作”=?>这样的问题时,我想对于那些一生致力于公司工作的人来说,这是一个严峻的问题。 事实上,我有一个在大阪的朋友,他曾经是个公司人,面对这个问题时苦笑地回答“零”,并谈到了他退休后的情况。 “当老婆要出门时,我说我也要去,结果被她讨厌了。” 像这样的退休丈夫被称为“恐怖的我也族”,但想象中现在“我也族”可能很普遍。然而,根据日本生命基础研究所的《退休前后》这本书中的调查结果,那些在工作中找到生活意义的人,在退休后也更可能在社会活动中找到生活的意义,简而言之,就是那些曾经的公司人退休后依然充满活力。 他们的社会活动意义似乎来自于社交圈的扩大,书中介绍了各种各样的例子,比如成为园艺师,参与NPO和志愿者活动,以及参与社区活动的前银行职员等。 以前听说过一个例子,那是一位曾经在一家重要银行担任分行长的人,在退休后不久,因为年收入大幅减少等变化感到失落,最终选择了自杀。 虽然这是一个极端的例子,但为“公司”努力的价值观可能与为“社会”努力的价值观相契合,这样的分析结果为公司人“之后”的生活带来了新的视角。 (近藤胜重《幸福的蜻蜓:公司人的‘之后’》2007年11月14日每日新闻夕刊) (注)ワシ:我

中篇2

原文

(2).技術者にとってレース車を開発するというのは、非常に魅力があるようなのだ。

それはそうだるう。市販車の開発であれば、コストのことや工場のことを考えなければいけないので、自分の考え出した創意工夫を必ずしも反映できるわけではない。いいモデルを出したからといって、営業の力が弱ければ売れるとは限らない(少なくとも、多くの開発技術者はそう思って歯軋りをしているに違いない)。しかし、レース車であれば、ある程度、採算無視で色んなことにトライできる。何よりも、営業力とか他の要素に邪魔されることなく、①どんな大メーカーを相手にも対等に優劣を争うことができるわけだ。

逆にいうと、言い訳のない世界でもある。敵よりコンマ1秒でも遅れをとれば負けるのだ。そして、それは、はっきりとその場で目に見える。(中略)

目標設定も単純だ。市販車開発なら、時にはアメリカと欧州の両市場で売れる車を作ってくれと営業から要求されたりする。そこでは技術的に妥協せざるを得ないが、レースは絶対的な速さだけを目指せばいいのだ。その代わり、自分の実力が今どうであれ、敵の車が75秒で(注2)サーキットを1周していれば、それより速いタイムで走る車をつくらないと意味がないのだ。②出来る、出来ないを論じる余地は全くない。また、お分かりのように、他チームの車の真似だけをしていれば、決して「最速」にはならないのも真実なのだ。

(田中詔一「ホンダの価値観-原点から守り続けるDNA」による)

(注1)歯軋りをする:ここでは、悔しく思う (注2)サーキット:レース用のコース

译文

(2).对于技术人员来说,开发赛车似乎非常有吸引力。 确实如此。在开发市售车时,必须考虑成本和工厂的限制,因此不一定能够完全反映自己提出的创新想法。即使推出了优秀的车型,如果销售力量不足,也不一定能够畅销(至少,许多开发技术人员一定是这么想的,内心感到懊恼)。然而,赛车就不一样了,可以在一定程度上不顾成本地尝试各种事情。最重要的是,无需受到销售力或其他因素的干扰,可以与任何大制造商公平竞争。 反过来讲,这也是一个没有任何借口的世界。只要比对手慢零点一秒就会输掉比赛,而且结果是显而易见的。(省略部分) 目标设定也很简单。在市售车开发中,有时销售部门会要求开发出能在美欧两大市场都畅销的车型。在这种情况下,技术上可能不得不妥协,但赛车只需要追求绝对的速度。然而,不管自己的实力如何,如果对手的车能在75秒内跑完一圈赛道,那么不制造出更快的车就没有意义了。根本没有讨论是否能做到的空间。而且,正如你所了解的,仅仅模仿其他车队的车是不可能成为“最快”的。

中篇3

原文

(3).わが国の文章の書き手として、想像・想像するという言葉をもっともよく使ったのは、おそらく柳田国男であるう。民衆に伝えられる生活の慣習、用具などに残る手がかりをつうじて、なつかしい古層 (注1) へのたどる民俗学の、わが国での開拓者として、柳田にはこの言葉がきわめてたいせつなものであった。

柳田は、それと空想・空想するという言葉とを区別しようとした。その文章の執筆の時期や、あつかう対象、また語りかける相手のちがいにつれて、柳田の行なった空想・空想すると、想像・想像するの区別には、いかにもはっきりしている際と、そうでない場合がある。しかし後の場合も、空想・空想することをしだいに正確にしてゆけば、想像・想像するにいたるという、段階的なつながりにおいて--あい接し(注 2)、境界がほやけていることはあるにしても、その上边と下边では、ちがいがはっきりしている、という仕方で--使われている。

具体的な根拠のない、あるいはあってもあいまいなものにたって行なう古層への心の動きを、空想・空想するとし、よりはっきりした根拠にたつ、しっかりした心の働きを、想像・想像するとして、柳田は使いわけているのである。

そこで時には、ややとか、あきらかにとかいう限定辞をかぶせればならぬのではあるが、空想・空想するには、人間の心の働きとして、マイナス・消極的評価のしるしがついており、想像・想像するは、プラス・積極的評価のしるしがついている (大江健三郎『新しい`文学のために』による) (注1)古層:ここでは、古い時代 (注2)あい接し:互いに接し

译文

(3).在我国的文学作者中,使用“想像・想像する”(想象、想像)这个词最多的可能是柳田国男。作为通过民众传承的生活习惯、工具等遗留线索,追溯到怀旧的古老层次(注1)的民俗学在我国的开拓者,这个词对柳田来说非常重要。

柳田试图区分“空想・空想する”(幻想、空想)这个词。随着他写作时期的不同、研究对象的不同,以及他对话对象的不同,柳田在使用“空想・空想する”和“想像・想像する”时,有时区别非常明显,有时则不那么明显。然而,即使在后一种情况下,如果逐渐使“空想・空想する”变得更准确,最终也会达到“想像・想像する”,它们之间存在着一种阶段性的联系——尽管在它们的边界可能模糊,但在它们的上限和下限之间,差异是明确的。

柳田将基于具体证据不足或即使有也是模糊的事物进行的心灵活动称为“空想・空想する”,而将基于更明确证据的、坚定的心灵活动称为“想像・想像する”。因此,有时需要加上“稍微”、“明显”等限定词,但“空想・空想する”作为人类心灵活动,带有负面、消极的评价;而“想像・想像する”则带有正面、积极的评价(大江健三郎《为了新的文学》)。 (注1)古层:这里指的是古老的时代。 (注2)あい接し:相互接触。

中篇4

长篇1

原文

理系の文章は明確な目的を持っている場合が多いので、その目的に応じて読者は文章を読む。このため、目的に合致した文章は満足感を読者に与える。たとえば、「東京都の交通渋滞に関する調査報告書」はそれを知りたい人が読み、その内容が過不足なく記述されていれば100点の評価となる。調査内容が不十分であれば評価は下がり、満足感は少なくなる。

しかし、もし著者と読者のあいだで、その文章を媒体として記述されていること以上の事柄が発見できれば、読者にとって最高の満足感となる。言い換えると、読者が新しい知識を発見する喜びを支援する、あるいはそのきっかけとなる文章こそが、100点以上の評価となる。それは著者と読者の①シナジー効果(二つのものから、それらの合計以上のものが生み出される効果)であり、それをもたらすには、著者は常に読者を意識し、読者とともに問題の解決にあたるという姿勢を持つことで文章に磨きがかかる。

いくら仕事や理系の文章だからといって「AはBだ、覚えておけ」という姿勢の文章では読者の満足感は少ない。むしろ読者は自分の無知を知り、自己嫌悪に陥り、一方、著者への親近感はなくなり、読む気がしなくなる。文章の目的を達成するために大事なことは、読者が最後まで読んでくれることである。いくら素晴らしい内容が書かれていても、読者が読む気のしない文章は目的を果たすことができない。

学生のレポートで、②それが一番よくわかる。なにしろ提出数が多いので、すべてを完全に理解しようとして読むことは不可能である。結局、最初の数行を読んで、あるいは全体を見渡して、読む気が起こるかどうかが評価に大いに影響する。これは、上司に提出する企画書や、コンペ(注1)に応募する提案書などでもまったく同じである。

その意味で、人の読む気を誘う文章であるかどうかは重要である。では、読む気とは何か。それこそがシナジー効果である。

(中略) 読者が自分で新しいことを発見することの支援はなかなか難しい。しかし、自分の思考過程を深く分析し、読者と一緒に考えようという姿勢を持つことが最も重要である。読者に与える完全な解答はなくても、解答に向かうひたむきな姿勢を示すことができれば良いのだということである。言い換えれば、ごまかしがなく、技巧を弄ばず(注2)、大げさに言えば著者の人生観を示すことで、真実に迫るという書き手の気持ちが読者に通じるのである。仕事の文章や理系の文章は、一般にはこういう行間の意味は不要と考えられているが、それでは無味乾燥(注3)の教科書文章となり、人の心に届かない。いくら人の③脳に届いても、心に届かないものは読む気がしなくなり、結局、読者の脳にも届かなくなる。

(三木光範「理系発想の文章術」による)

(注1)コンペ:ここでは、仕事の依頼先を選ぶために企画を競争させるもの

(注2)技巧を弄ばず:技巧を用いずに

(注3)無味乾燥:味も香りもない、つまらない

译文

理科类的文章通常具有明确的目的,因此读者会根据这些目的来阅读文章。因此,符合这些目的的文章能够给读者带来满足感。例如,如果有人想了解“关于东京都交通拥堵的调查报告书”,并且报告内容详尽无缺,那么它将得到满分评价。如果调查内容不够充分,评价就会下降,读者的满足感也会减少。

然而,如果作者和读者之间能够通过文章发现比直接描述的内容更多的东西,那么对于读者来说,这将是最高级别的满足感。换句话说,如果文章能够帮助读者发现新的知识,或者成为发现新知识的契机,这样的文章将获得超过100分的评价。这就是作者和读者之间的①协同效应(两个元素结合产生超过它们各自总和的效果),而要实现这一点,作者必须始终意识到读者的存在,并与读者一起面对问题解决,这样的态度会使文章更加完善。

即使是在工作或理科文章中,如果文章采取“这是A,记住它是B”的态度,读者的满足感也会很少。相反,读者可能会意识到自己的无知,陷入自我厌恶,同时对作者产生距离感,失去阅读的兴趣。为了实现文章的目的,重要的是让读者能够从头到尾阅读文章。无论内容多么精彩,如果读者没有阅读的意愿,文章就无法实现其目的。

在学生的报告中,这一点②最为明显。因为提交的数量很多,不可能完全理解每一份。最终,读者是否会阅读,往往取决于最初几行的阅读感受,或者对整体的快速浏览。这在向上司提交的企划书或参加竞赛的提案书中也是完全一样的。

因此,是否能够吸引读者阅读文章是非常重要的。那么,阅读的意愿是什么呢?那就是协同效应。

(中略) 要支持读者自己发现新事物并不容易。然而,最重要的是深入分析自己的思考过程,并采取与读者一起思考的态度。即使不能给读者提供完整的答案,如果能够展示出追求答案的真诚态度,那就足够了。换句话说,不使用欺骗手段,不玩弄技巧,甚至可以说,通过展示作者的人生观来接近真实,这种写作的心情能够与读者产生共鸣。通常认为,工作文章或理科文章不需要这种言外之意,但如果这样的话,文章就会变得枯燥无味,像教科书一样,无法打动人心。即使文章能够到达读者的③大脑,如果不能触及心灵,读者就会失去阅读的兴趣,最终文章也无法真正到达读者的心中。

(三木光範《理科思维的文章术》)

对比

原文

A

生態系保全(注1)では、そこに生息する(注2)生物のことを考慮するが、生態系を構成するすべての生物を等しく扱うことはできない。なぜなら、一部の生物を守るうとすると、必ず不利益を被る生物が生じるからである。すなわち、われわれ人間が何をしても、それによって利益を得る生物と不利益を受けるものが生じることになる。そうなると、生態系を保全する目的で、何らかの活動をするということは、一部の生物種に利益を与えるということになる。

(中略) 唯一われわれが言えることは、われわれが人類であるから、「地球生態系は人類が健全に生きていくためにある」ということである。すなわち、「生態系は人類のため」なのである。言い換えれば、人類に利益を与えてくれる生態系を保全すべきなのである。

(花里孝幸『自然はそんなにヤワじゃない-誤解だらけの生態系』による)

B

保全生物学 (注 3)の核となる概念である生物多様性は種の存続によって維持される。したがって、保全生物学では、希少種や減少過程にある生物群の保全に関する知識と方法が一つの重要な課題である。(中略)

しかし、個別の種をそれぞれ保護することは非常に困難である。一つの生態系をとっても、微生物から植物、昆虫、哺乳動物など多くの種が生存しているが、それらのすべての生態を把握して保護することは不可能に近い。さらに、未分類の種や種レベル以下の遺伝的多様性は、個別の種を保護する方法では逆に保護されなくなってしまう恐れがある。そこで、多様な生物の相互関係を含む自然をそのまま保全することが重要になってくる。つまり、生態系を保全することで、そこに含まれる全ての生物を保護するという考え方である。 高柳敦『琵琶湖研究所所報』1996年第15号によ

译文

A

在生态系统保护中,我们会考虑生活在其中的生物,但不能平等地对待构成生态系统的所有生物。这是因为,当我们试图保护某些生物时,总会有一些生物因此受到不利影响。换句话说,无论我们人类做什么,总会有生物因此受益,同时也会有生物受到不利影响。因此,当我们出于保护生态系统的目的是进行任何活动时,实际上是在给予某些生物种群利益。

(中略) 我们唯一能说的是,因为我们是人类,“地球生态系统是为了人类能够健康生存而存在的”。也就是说,“生态系统是为了人类”。换句话说,我们应该保护那些能够给人类带来利益的生态系统。 (花里孝幸《自然不是那么脆弱-充满误解的生态系统》)

B

保全生物学的核心概念是生物多样性,它依赖于物种的存续来维持。因此,在保全生物学中,关于稀有物种和处于减少过程中的生物群体的保护知识和方法是一个重要的课题。(中略)

然而,单独保护每一个物种是非常困难的。即使是一个生态系统,从微生物到植物、昆虫、哺乳动物等许多物种都生存着,但要全面了解并保护它们的所有生态几乎是不可能的。此外,未分类的物种和低于物种级别的遗传多样性,在单独保护物种的方法下,可能会反而得不到保护。因此,保护包含多种生物相互关系的自然本身变得至关重要。也就是说,通过保护生态系统来保护其中包含的所有生物的想法。 高柳敦《琵琶湖研究所所报》1996年第15号

本文作者:yowayimono

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