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2024-09-20
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短篇1
短篇2
短篇3
短篇4
中篇1
中篇2
中篇3
中篇4
长篇
对比

短篇1

原文

「できる人のモノサシ」は、ごく一部であるエリートにしか通用しません。でも大多数に属している平凡な自分がもつ「普通のモノサシ」は、世の中の多くの人に通用するモノサシです。その「普通のモノサシ」からこそ、多くの人に共感されるヒット商品が生み出せると思うのです。

自分は平凡だとか、つまらない人間だと思っている人にこそ、「売れる発想」がわき、「売れるシナリオ」が組み立てられ、「売れる商品」をつくれるのではないか。私はそんなふうに考えています。

(吉川美樹『半径1メートルの「売れる!」発想術』による)

译文

“能干人士的尺度”只适用于极少数的精英。然而,大多数属于普通人的自己所持有的“普通的尺度”,才是适用于社会大多数人的尺度。我认为,正是这个“普通的尺度”能够创造出许多引起人们共鸣的热门商品。

对于那些认为自己平凡或无趣的人来说,他们可能恰恰能够涌现出“畅销的创意”,构建出“畅销的情节”,并创造出“畅销的商品”。我就是这么认为的。

(摘自吉川美树《半径1米内的“畅销!”思维术》)

短篇2

原文

テンベルクの活版印刷革命から約 500 年,今世紀、デジタル技術による情報爆発の時代が始まった。

だれもが発信者になるインターネット世界で、すでに情報は飽和している。すると、「いかに蓄積された情報を統合的に再利用するか」がキ-(注)になる。大量に蓄積された情報の中から、重要なものを発掘して新たな創造に結びつけていく技術。

それは古代から書物を大量に蓄積し、索引検索によって利用できるようにしてきた図書館の基本システムそのものだ。図書館は、私たちが思っているよりはるかに未来的なものだ。

(朝日新聞グループ2013年8月18日付による)

(注)キ-:ここでは、重要な点

译文

自从古腾堡的活版印刷革命大约500年后,这个世纪,我们进入了由数字技术引发的信息爆炸时代。

在互联网世界中,每个人都可以成为信息的发布者,信息已经饱和。于是,“如何综合再利用积累的信息”成为了关键(注)。从大量积累的信息中挖掘重要部分,并将其与新的创造联系起来的技术。

这正是自古以来图书馆大量积累书籍,并通过索引检索使其变得可用的基本系统本身。图书馆比我们想象的要更加面向未来。

(摘自朝日新闻集团2013年8月18日版)

(注)关键:这里指重要的点

短篇3

原文

職業として芸術家や学者、あるいは創造にかかわるひとひととは生涯コドモとしての部分がその作品をつくる。その部分の水分が燕発せぬよう心がければならないが、このことは生活人のすべてに通じることである。万人にとって感動のある人生を送るためには、自分のなかのコドモを蒸発させてはならない。

じつをいうと、この世のたいていの職業は、オトナの部分で成立している。とくに法律や経理のビジネスの分野はそうである。ところが、うれしいことに、そういう職業人のなかに豊潤な鑑賞家や趣味人が多い。

(司馬遼太郎『風塵抄』による)

译文

作为职业的艺术家、学者,或者从事创造性工作的人们,他们的一生中都保持着孩童般的一面,正是这部分创造了他们的作品。我们必须小心不让这部分的水分蒸发,但这同样适用于所有普通人。为了过上每个人都能感动的生活,我们不应该让内心的孩童消失。

实际上,这个世界上大多数的职业都是由成年人的一面所支撑的。特别是法律和会计等商业领域更是如此。然而,令人高兴的是,在这些职业人士中,有许多人是富有鉴赏力的爱好者。

(摘自司马辽太郎《风尘抄》)

短篇4

原文

我々は裸の眼でものを見ているように思っているが、実際そうではない。我々は、常識という色眼鏡でものを見ている。そして、常識を作ったのは、過去の偉大な人間であり、その偉大な人間はある学問や芸術を創り出し、そして、新しく世界を見る眼を我々に教えた。その眼が歴史的に我々に伝承され、我々はその眼でもって、ものを見、しかも裸の眼でものを見ていると思っている。しかし、一つの眼である限り、それは世界を歪んで見ているのである。その眼からはどうしても見えない何かがあるのである。

(梅原猛「鑾宴-梅原猛 随想と対話』による)

译文

我们以为自己是用裸眼观察事物的,但实际上并非如此。我们是通过常识这副有色眼镜来看待世界的。 而常识是由过去的伟人们创造的,这些伟人创造了某些学问和艺术,并教会了我们用新的视角来看待世界。这些视角通过历史传承给我们,我们用这些视角来看待事物,同时以为自己是用裸眼在看。然而,只要我们只用这一种视角,我们就是在歪曲地看待世界。总有一些东西是我们通过这副眼镜所看不见的。

(摘自梅原猛《宴席——梅原猛随想与对话》)

中篇1

原文

私たちは、日々、大量の情報を処理しなければならない現代において、本もまた、「できるだけ速く、たくさん読まなければいけない」という一種の強迫(注 1)観念にとらわれている。「速読コンプレックス」と言い換えてもいいかもしれない。しかも、楽をしてそれができるのであれば、書うことはない。巷(ちまた)に溢れかえっている速読法を説く本はそうした心理に巧みにつけこむ(注 2)ように書かれている。

もちろん、時と場合によっては、速く読むことも必要だろう。「明日までに大量の資料を読んで書類を作らなければいけない」といった状況下では、速読や斜め読み(注 3)は避けられないだろう。しかしそれは、単に一時的な情報の処理であり、書かれた内容を十分に理解し、その知識を、自分の財産として身につけるための読書ではない。単に、情報の渦の中に否応なく巻き込まれてしまっているだけで、自分の人生を、今日のこの瞬間までよりも、さらに豊かで、個性的なものにするための読書ではないのである。

読書を楽しむ秘訣は、何よりも、「速読コンプレックス」から解放されることである!本を速く読まなければならない理由は何もない。速く読もうと思えば、速く読めるような内容の薄い本に手が伸びがちである。その反対に、ゆっくり読むことを心がけていれば、時間をかけるに値する、手応えのある本を好むようになるだろう。

(平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』による)

(注 1)強迫観念にとらわれている:ここでは、強い思いから逃れられない

(注 2)~に巧みにつけこむ:ここでは、~をうまく利用する

(注 3)斜め読み:さっと読むこと

译文

在我们每天必须处理大量信息的现代社会中,书籍也被一种“必须尽可能快地、大量地阅读”的强迫观念所束缚。或许可以称之为“速读综合症”。当然,如果能够轻松做到这一点,那么就没有必要写作了。市面上充斥的关于速读技巧的书籍正是巧妙地利用了这种心理而编写的。

当然,在某些时候,快速阅读也是必要的。比如在“必须在明天之前阅读大量资料并制作文件”的情况下,速读和跳读是不可避免的。然而,这只是临时的信息处理,并不是深入理解所读内容并将知识转化为自己财产的阅读。这只是被动地卷入信息的漩涡中,并不是为了使自己的人生比今天这一刻更加丰富和有个性的阅读。

阅读的乐趣秘诀在于,首先,从“速读综合症”中解放出来!没有任何理由必须快速阅读书籍。如果你想要快速阅读,那么你可能会倾向于选择内容浅薄的书籍。相反,如果你致力于慢慢阅读,你将会倾向于选择那些值得投入时间、有深度的书籍。

(摘自平野启一郎《如何阅读一本书:慢阅读的实践》)

中篇2

原文

中学生や高校生の頃、歴史の時間が退屈だった。 (中略) そんな私が四十歳の頃から歴史に興味を持ち始めた。何かを調べるとその辺りに知識の島ができ、別のことを調べるとまた別の島ができる。そのうちに孤立していたはずの二つの島が橋でつながる。「こういうことだったのか」という①驚きがある。一見関係のなさそうな二つのものが結びつくという意外性は、自然科学における醍醐味の最たるものでもある。歴史を調べれば調べるほど島々がネットワークのように結ばれて行く。人間や情報は地球上を移動するから当然なのだが、ネットワークの構築はなぜか脳にすこぶる心地よい。その上あらゆる現象に人間が絡んでいて余計に面白い。②歴史とは地球を舞台とした途方もなく壮大な演劇なのだ。自分や先祖も舞台の隅の隅の隅で参加している。それに人間の本質は変わらないから、人は似た状況で似た失敗を何度も繰り返す。だから現在を考えるのに実に役立つ。

若い頃にこの面白さに気付いていれば、今と違い記憶力もよかったから強大かつ緻密なネットワークを完成することができ歴史をもっと深く味わえたのにとも思う。無理だったかも知れない。中年にさしかかって初めてこれまで生きてきた、そしてそう遠くない将来に消える自分の立位置を確かめたくなるからだ。家系を調べたくなったり先祖や自らがどのような時代の流れの中で生を受け生を営んできたかを知りたくなる。無邪気なままこの世から退場したくなくなるのだ。十代で歴史に興味を持つ者の気持ちには私には不思議だが、中年になって歴史に興味を持たない者の気持ちにはそれ以上に不思議だ。

(注1)途方もない:とんでもない。比べるものもない。

(藤原正彦『週刊新潮』2010年10月28日号による)

(注2)失敗:へま

译文

(2).在我还是中学生或高中生的时候,历史课总是让人感到无聊。 (中略) 然而,到了四十岁的时候,我开始对历史产生了兴趣。当我调查某件事情时,就会在那个领域形成一个知识的岛屿,调查另一件事情时,又会形成另一个岛屿。最终,原本孤立的两个岛屿通过桥梁连接起来。“原来如此!”有一种①惊喜感。看似无关的两个事物连接起来的意外性,也是自然科学中最令人兴奋的体验之一。随着对历史的深入研究,这些岛屿就像网络一样连接起来。人类和信息在地球上移动是理所当然的,但构建网络的过程不知为何让大脑感到非常愉快。而且,因为所有现象都与人类有关,所以更加有趣。②历史就像是在地球上上演的一部无比宏大、壮观的戏剧。我们自己和祖先也在舞台的最边缘参与其中。而且,因为人类的本质没有改变,人们在相似的情况下会反复犯下相同的错误。因此,历史对于思考现在非常有帮助。

如果我年轻时就意识到这种乐趣,由于那时的记忆力比现在好,我可能能够构建一个庞大而精细的知识网络,并更深入地品味历史。但这可能很难做到。到了中年,人们开始想要确认自己迄今为止的生活,以及不久的将来即将消失的自己的位置。人们会想要调查家系,想要了解祖先和自己是如何在历史的洪流中诞生并度过一生的。我不想天真地离开这个世界。对于十几岁就对历史感兴趣的人的心情,我感到不可思议,但对于到了中年还不对历史感兴趣的人的心情,我感到更加不可思议。

(摘自藤原正彦《周刊新潮》2010年10月28日号)

(注1)途方もない:难以想象的,无与伦比的。

(注2)失敗:错误,失败。

中篇3

原文

人類は、「都市」という空間をつくったときに、それまでの部族的(注 1)、あるいは村落的な社会空間とは本質的に異なる社会空間を経験した。村落においては人々は、共に生き、共に死んでいくものとして、互いのこと、そのまた親の世代のこと、祖先のことまで熱知していることを前提とした社会的な関係を形成する。都市の街頭においては、人々は、互いの匿名性を前提として、見ず知らずの他人同士の視線によるコミュニティ-ションを交わす。都市のなかの市場では相手の人柄や家族のことなどなにも知らないことを前提とした商品の売買や機能的な結びつきを形成する。さらにそれを恒常化した組織も、村落の人と人の関係とは違って人々の分業を最適な状態で実現するための機能的なつながりである。

都市の社会空間の経験は、人類にとっての社会のイメージを決定的に変えたし、したがって自己のイメージも変えた。人々は、自分を個人という単位として意識する機会が多くなり、財は一族(注 2)や集団のものではなく、個人のものと意識され、才能は個々の人間の属性(注 3)として考えられるようになった。都市の人間の間にも、うわさが飛び交うような口頭のコミュニティ-ションは発達したが、都市社会が大型化し、複雑化するにしたがって、それだけでは情報の共有に不安定性が拡大してくる。マスメディアは、誰でもアクセス可能であることを原理とする一方向の公開型メディアである。そのため、都市型のコミュニティ-ションを補完(注 4)し、あるいはそれを強化する機能をになっている。

(注 1)部族:共通の文化を持つ地域的集団

(注 2)一族:血縁関係の集団

(注 3)属性:人やものに備わる固有の性質

(成田康昭『メディア空間文化論-いくつもの私との遭遇』による)

(注 4)補完する:補う

译文

人类在创造出“城市”这一空间时,经历了与以往部落式或村落式社会空间本质上不同的社会空间。在村落中,人们基于共同生活、共同生死的观念,形成了相互了解彼此、了解上一代乃至祖先的社会关系。而在城市的街头,人们以彼此的匿名性为前提,与陌生的他人进行视线交流的沟通。在城市中的市场里,人们在不了解对方人品或家族的情况下,形成了商品买卖和功能性的联系。此外,那些使这种状态常态化了的组织,也是为了实现人们分工合作的最佳状态而存在的功能性联系。

城市社会空间的体验,彻底改变了人类对社会的想象,因此也改变了自我形象。人们越来越多地意识到自己作为一个独立的个体,财产不再是家族或集体的,而是个人的,才能被视为每个人固有的属性。尽管在城市居民之间也发展出口头交流,但随着城市社会的扩大和复杂化,仅靠这种交流方式在信息共享方面变得不稳定。大众媒体作为一种任何人都可以访问的单向公开媒体,因此起到了补充或加强城市型交流的功能。

(摘自成田康昭《媒体空间文化论-与多个自我的遭遇》)

(注 1)部落:拥有共同文化的地区集团

(注 2)家族:血缘关系的集团

(注 3)属性:人或事物固有的特性

(注 4)补充:补充

中篇4

原文

私は、一人の作曲家として、色々な機会に、自分の作曲について語ってきた。しかしそれは、私自身が、自分の作曲についてよく知っている、ということを意味するわけではない。私の作曲には、言葉で説明できるような組織的な方法論はない。作曲するときの私は、単に、感覚に頼って、直観的に「これがいい」と納得できる音の連なりを採り続ける。そして、「ここが曲の終わりだ」と感じるところに到ったとき、一つの曲の出来上がりとなる。ただそれだけである。「これがいい」あるいは、「ここが曲の終わりだ」という感覚的な判断の根拠は、説明できない。そして、そのようにして作った曲が何であるのかについても、よく分からないのである。

もっとも、私は、自分の作曲について本当に何も知らないというわけではない。そもそも、どうやって何を作るかということを全く知らずに物を作ることは、不可能である。例えば、もし、ガラスのことも、そして、花瓶というものがどのようなものかも知らなければ、ガラスの花瓶を作ることはできない。同様に、作曲の場合にも、素材である音と、その音の構成の仕方について知らなければ、そしてさらに、音楽というものがどのようなものなのかを知らなければ、曲を作ることはできない。作曲をするからには、作曲者は、当然、それらについてある程度知っている。 (中略)

作曲は、必ず、何らかの伝統における「基本的な」知識を前提としている。だが、その「基本的な」知識をそのまま(大抵の場合、無意識的に)受け入れてその範囲で作曲する「保守的な」作曲家たちがいる一方で、前衛主義に代表されるような、新たな音楽の可能性を求める作曲家たちは、自らが出発点とした伝統における「基本的な」知識の外に踏み出そうとする。そして、この伝統からの踏み出し--あるいは、「逸脱」と言うべきかもしれない--は、常に、実験的な性質を帯びる。つまり、非伝統的な素材を用いることによって、あるいは、非伝統的な音構成法を試みることによって、伝統に由来する「基本的な」知識が覆える音楽というもののイメージから逸脱した未知のものが産み出される可能性がある。そして、この未知なるものを相変わらず「音楽」と呼ぶとしても、それがどのような意義と価値を持つ音楽なのかは、判らないのである。その意義と価値を判断するためには、そこに生まれてきた音楽そのものを吟味してみるほかはない。

私が、自分自身の作曲について語り得ることは、まさにこのこと、つまり、自らが行った実験的な試みの結果として産み出された音楽についての吟味であり、言い換えれば、自分が行ったこととその結果についての自分自身による解釈なのである。

(近藤譲「〈音楽〉という謎」による)

译文

作为一名作曲家,我在许多场合谈论过自己的作曲。但这并不意味着我真正了解自己的作曲。我的作曲没有可以言明的系统方法论。当我作曲时,我只是依赖感觉,直观地选择那些我认为“好”的音的连续。当我感觉到“这里就是曲子的结束”时,一个曲子就完成了。仅此而已。“好”或者“这里就是曲子的结束”的感觉判断依据是无法解释的。而且,对于我这样创作出来的曲子到底是什么,我也并不清楚。

当然,我并不是对我的作曲一无所知。毕竟,完全不知道如何制作某物而制作它是不可能的。例如,如果不知道玻璃是什么,也不知道花瓶是什么样的东西,就无法制作玻璃花瓶。同样地,作曲时,如果不知道声音素材以及声音的构成方式,如果不知道音乐是什么,就无法创作曲子。作曲者在创作时,当然对这些有一定的了解。 (中略)

作曲总是以某种传统中的“基础知识”为前提。然而,有些作曲家接受这些“基础知识”并在此范围内作曲,成为“保守”的作曲家,而有些像前卫主义代表的作曲家则寻求新的音乐可能性,试图超越他们出发点的传统中的“基础知识”。这种从传统出发的超越——或许应该称之为“偏离”——总是带有实验性质。也就是说,通过使用非传统的素材或尝试非传统的音构法,有可能创造出超越传统“基础知识”所定义的音乐形象的未知事物。即使我们仍然称这些未知事物为“音乐”,它们的意义和价值是什么,我们并不清楚。为了判断这些意义和价值,我们只能仔细审视那些产生的音乐本身。 我能谈论的关于自己的作曲,正是这一点,即对自己进行的实验性尝试所产出的音乐进行审视,换句话说,就是对自己所做的事情及其结果的个人解释。

(摘自近藤让《〈音乐〉之谜》)

长篇

原文

たとえば、あなたが会社の中で企画部門に属し、①目標値を設定する仕事を与えられたとする。ここでは造成不可能な目標を設定したところで意味がないとされるから、外部環境や内部の状況を含め、諸々の要素を検討することになるだろう。その上で現状から考えて、達成可能かつできる限り高い目標を採ることになる。

このとき、あなたが今後変わりうる外部環境を完璧に予想し、会社内部のすべてを完全に掌握している存在であれば、目標を設定する仕事はこの上なく楽しいものだ。社員全員がこれに向かって全力を出せばそれでいいことになる。

しかし、実際にはそんなことはありえない。外部環境は予想もつかない方向に変わりうるし、社内では、上からの目が届かないところでアイデアを秘し持った人が必ずいる。固定化した目標は、不確定要素にまったく対応できないのである。しかも、こうした事前に予想ができない要素にこそ、大きなビジネスチャンスが転がっている。

だから目標を設定するならば、変化に対応する中で、各人の創意工夫の果てにやっと達成されるようなものでなければいけない。しかし、事前にこれらをすべて盛り込むことはできるはずもないから、何となく納得感のありそうな落とし所(注1)を設定することになる。大人はこの落とし所という言葉が大好きなのだが、こんなものに意味があるはずもないのだ。これでは真の可能性を引き出すことができないのである。

これは個人としても同じことである。(中略)

試合直後の力士にインタビューをすれば、「明日の試合をまた頑張るだけ」と答えが返ってくるだろう。ゴルフツアーの最終日を明日に控えたプロ選手でも、翌日のスコア目標などは口にしない。そんなことを考え始めれば、プレイが崩れ始めることを知っているからだ。

それにもかかわらず、なぜかビジネスになると、途端に誰もが最終ゴールを決めようとする。スポーツよりも遥かに不確定な要素が多いにもかかわらず、目標によって自分たちを縛りつけようとするのである。これにはかなり②違和感を覚える。

どんなことでも、周囲の状況はどんどん変わることが当たり前である。それにもかかわらず、自分だけ変わらないのはおかしい。過去に立てた目標によって自分を窮屈な存在にしてはいけないのである。

もしどうしても目標を立てたいのであれば、ほとんど実現不可能なくらいの大きな目標を持つべきだろう。しかし、これ自体はその達成方法を考えるのに役には立たない。自分が持つ可能性を大事にしたいのであれば、目の前のことだけに没入(注2)し、何かしらの(注 3)変化を察知するにつけ、次のベストを探すというスタンスを保持することが重要である。

(注1)落とし所:妥協点

(成毛眞『大人けない大人になれ』による)

(注 2)没入:ここでは、集中する

(注 3)何かしらの:何らかの

译文

例如,假设你在公司中属于企划部门,并被赋予了设定目标值的工作。在这种情况下,设定一个无法实现的目标是没有意义的,因此你会考虑包括外部环境和内部状况在内的各种因素。基于当前状况,你会选择一个既可实现又尽可能高的目标。

如果此时你能完美预测未来可能变化的外部环境,并且完全掌握公司内部的所有情况,那么设定目标的工作将会变得非常有趣。如果所有员工都朝着这个目标全力以赴,那就万事大吉了。

然而,实际上这是不可能的。外部环境可能会朝着无法预料的方向变化,而在公司内部,总会有那些上级看不到的地方隐藏着有创意的人。固定的目标无法应对不确定因素。而且,正是这些无法事先预料的因素中,往往隐藏着巨大的商业机会。

因此,设定目标时,应该是那种需要每个人发挥创意和努力才能最终实现的目标。然而,我们不可能事先考虑到所有这些因素,因此我们会设定一个大致上让人感觉合理的妥协点。大人们很喜欢这个“妥协点”这个词,但实际上它没有任何意义。这样做无法真正激发我们的潜力。

这对个人来说也是同样的道理。(中略)

比赛结束后,如果你采访相扑力士,他们可能会回答:“明天的比赛我也会全力以赴。”即将参加高尔夫巡回赛最后一日的选手也不会说出第二天的得分目标。因为他们知道,一旦开始考虑这些,比赛就会开始崩溃。

然而,不知为何,一旦涉及商业,人们就会突然想要设定最终目标。尽管商业比体育拥有更多不确定因素,人们却试图用目标来限制自己。这让人感到相当的违和感。

任何事情都是如此,周围的状况总是在不断变化,这是常态。然而,如果我们自己不随之变化,那就是不正常的。我们不应该用过去设定的目标来束缚自己。

如果无论如何都想设定目标,那么应该设定一个几乎不可能实现的宏大目标。然而,这本身并不能帮助我们思考如何实现它。如果我们想珍视自己的可能性,那么我们应该专注于眼前的事情,随着任何变化的感知,不断寻找下一个最佳方案。

(摘自成毛眞《成为不成熟的成年人》)

(注1)妥协点:折中方案

(注2)没入:在这里指集中

(注3)何らかの:某种

对比

原文

A

子どもの昆虫採集について、生命尊重や希少種保護の観点からの批判的な意見が聞かれる。これに対しては、子どもが採集する数など微々たるものなのだから、自然と触れ合うことのメリットを重視すべきだという反論もある。

確かに幼少期の自然体験は自然観の形成に必要ではあるが、実際に子どもの昆虫採集の様子を見ると、子どもが魅力を感じているのは捕獲の瞬間だけだ。子どもの興味に任せるだけではただの遊びにしかならない。そのため、昆虫採集をより有意義な体験にするには、大人からの働きかけが必要だ。昆虫の体や生態を見て知る姿勢を教え、子どもが種の多様性に気づくようにすることが大切だ。

B

虫取りに夢中になって時間を忘れてしまう子や自分のつかまえたバッタ(注)に見入ってしまう子は、もうその活動の中にその子どものよさや可能性が秘められている。「どこがおもしろいの」と尋ねれば、彼らは根拠を持って今自分が価値を持って見つめているものについて答えてくれるだろう。彼らの学びは、もうすでに始まっているのだ。

学びを通して、自然に対し自分なりの意味を構築していく中で「生命尊重」「自然観」も進化していく。それに伴って「生命愛護」「自然環境との共存」という心情も深化していくものだろう。(中略)そのように考えるとき、自然に対して自分なりの意味を見いだせるかということ、実践を伴った理解が行われるかということを抜きにして、「生命愛護」も「自然環境との共生」も語ることはできないだろう。

(角屋重樹·森本信也編著「小学校 理科教育はこう変わる--ニ--サイエンスを求めて』による)

(注)バッタ:昆虫の一種

译文

A

关于孩子们采集昆虫的行为,有人从尊重生命和保护稀有物种的角度提出了批评意见。对此,有人反驳说,孩子们采集的数量微不足道,因此应该重视与自然接触的好处。

的确,童年时期的自然体验对于形成自然观是必要的,但观察孩子们采集昆虫的实际情形,他们感兴趣的似乎只是捕捉的瞬间。如果仅凭孩子们的兴趣,那么这只会变成单纯的玩耍。因此,为了让昆虫采集成为更有意义的体验,需要大人的引导。教导孩子们观察昆虫的身体和生态,让他们意识到物种多样性的重要性是至关重要的。

B

沉迷于捕虫以至于忘记时间的孩子们,或者凝视着自己捕捉到的蚱蜢(注)的孩子们,他们的活动中已经蕴含了他们的优点和潜力。如果问他们“哪里有趣”,他们会基于理由告诉你他们正在关注并赋予价值的东西。他们的学习已经开始了。

通过学习,孩子们在构建自己对自然的理解的同时,也会发展出“尊重生命”和“自然观”。随之而来的是“爱护生命”和“与自然环境共存”的情感也会深化。(中略)这样看来,如果不考虑能否发现自然对自己独特的意义,以及是否伴随着实践的理解,那么谈论“爱护生命”和“与自然环境共生”是不可能的。

(摘自角屋重树·森本信也编著《小学理科教育将这样改变——追求新科学》)

(注)蚱蜢:一种昆虫

本文作者:yowayimono

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