原文
(1)教師=話す人、生徒=開く人という構造が知らず知らずのうちに教室空間にできあがり、そして固定化してしまうのは恐ろしいことではないかと思う。教師が先取りしてしまうことで、生徒が自分自身で考え、解決しようとする芽を摘んでしまう場合がある。
いつも話し続けるのがコミュニケーションではない。教師側が沈黙し、「待つ」という行為も時には大切である。もう少し話したい、と思うところで一歩ひいてみることで、相手が言おうとすることを引き出すことができるのである。
(徳井厚子『日本語教師の「衣」再考-多文化共生への課題』による)
译文
(1)在不知不觉中,教室空间形成了“教师=说话者、学生=倾听者”的结构,并且这种结构可能会固定下来,这难道不是一件可怕的事情吗?如果教师过于主导,有时会扼杀学生自我思考和解决问题的萌芽。
沟通并不总是意味着不停地说话。教师保持沉默,“等待”的行为有时也是很重要的。在你想要继续说下去的时候稍微退一步(注),这样可以引出对方想要表达的内容。
(摘自徳井厚子《日本语教师的“衣”再思考-面向多文化共生的课题》)
(注)一歩ひいてみる:这里指的是停止说话。
原文
(2)以下は、ある市役所のホームペ-ジに掲載されたお知らせである。
2016年11月1日
スポーツ課
市民運動場の予約について
市民運動場の予約は、これまで管理事務所窓口で受け付けておりましたが、2017年2月1日よりインターネット上の予約システムでも行うことができるようになります。予約システムの利用は平日、土日祝日を問わず24時間可能で、予約は窓口での予約と同様に、使用日の一か月前から受け付けます。
予約システムの利用に際しては、事前に利用者登録が必要となりますので、身分を証明できるものを持って管理事務所窓口にお越しください。
市民運動場管理事務所
〒002-3833南松市中央町3-2中央公内
(受付時間:月曜日金曜日 9:0017:00)
译文
(2)以下是从某个市政厅的官方网站上发布的通知。
2016年11月1日
体育课
关于市民运动场的预约
市民运动场的预约,迄今为止都是在管理事务所窗口进行的,但从2017年2月1日起,也可以通过互联网上的预约系统进行。预约系统可以全天候使用,无论是工作日还是周末及节假日,并且预约将从使用日前一个月开始接受。
使用预约系统需要事先进行用户注册,请携带可以证明身份的证件到管理事务所窗口。
市民运动场管理事务所
邮编002-3833 南松市中央町3-2 中央公园内
(受理时间:周一至周五 9:00至17:00)
原文
(3)異文化間での対話を議論するときに、必ずといってよいくらい出てくるのが、価値観の理解と共有である。他者と対話を通して、人間関係を樹立していくには、自己の価値観を保存したままで、他者の価値観を理解するという方略だけでは十分ではない。相互的な働きかけを通じて、何か新たな価値を共有することが要求されるのである。すなわち、自らの価値観を相対化し、新たな価値を対話という共同作業を通して創り上げ、それを共有していく態度が必要なのだ。
(ARCLE 編集委員会・田中茂範・アレン玉井光江・根岸雅史・吉田研作編著『幼児から成人まで一貫した英語教育のための枠組み-ECF-English Curriculum Framework.による)
译文
(3)在讨论跨文化对话时,几乎不可避免地会提到价值观的理解与共享。通过与他人对话建立人际关系,仅仅保持自己的价值观不变,同时试图理解他人的价值观是不够的。通过相互作用,要求我们共享某种新的价值。也就是说,需要采取一种态度,即将自己的价值观相对化,并通过对话这一共同活动创造新的价值,并与他人共享。
(摘自ARCLE编辑委员会、田中茂範、アレン玉井光江、根岸雅史、吉田研作编著的《为从幼儿到成人一贯的英语教育构建框架-ECF-English Curriculum Framework》)
原文
(4)以下は、劇を作ることを仕事にしている人が書いた文章である。
僕は「変な人」です。そうでなければ、こんな仕事はしてません。そして僕は「普通の人」です。だからこそこの仕事が成立しています。
「特別なもの」を生み出そうとするとき、それがどんなふうに特別なのかを「普通」という視点から見極める必要があります。「特別」と「普通」、定規を何度も持ち替えるのです。そのために自分の中の普通さを死守するのです。
(小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』による)
译文
(4)以下是一位以创作戏剧为职业的人所写的文章。
我是“奇怪的人”。如果不是这样,我不会从事这样的工作。同时,我也是“普通人”。正因为如此,我的工作才能成立。
当试图创造出“特别的东西”时,需要从“普通”的视角去判断它究竟有多么特别。在“特别”与“普通”之间,我不断地切换衡量标准。为此,我必须坚守自己内心的普通感。
(摘自小林贤太郎《我为短剧和戏剧所思考的事情》)
原文
(1)人に従順な飼い犬は、もともとオオカミの仲間を飼い馴らしたものである。(中略)
ところが、「人間がオオカミを飼い馴らした」という話には謎が多い。犬が人間と暮らすようになったのは、15000年ほど前の旧石器時代のことであると推測されている。当時の人類にとって、肉食獣は恐るべき敵であった。そんな恐ろしい肉食獣を飼い馴らすという発想を当時の人類が持ち得たのだうか。しかも犬を飼うということは、犬にエサをやらなければならない。わずかな食糧で暮らしていた人類に、犬を飼うほどの余裕があったのだうか。また当時の人類は犬がいなくても、狩りをすることができた。犬を必要とする理由はなかったのである。
最近の研究では、人間が犬を必要としたのではなく、犬の方から人間を求めて寄り添ってきたと考えられている。犬の祖先となったとされる弱いオオカミたちは、群れの中での順位が低く、食べ物も十分ではない。そこで、人間に近づき、食べ残しをあさるようになったのではないかと考えられているのである。
弱いオオカミだけでは、狩りをすることができないが、人間の手助けをすることはできる。そして、やがて人間と犬とが一緒に狩りをするようになったと推察されている。こう考えると、当時、自然界の中で強い存在となりつつあった人間に寄り添うことは、犬にとって得なことが多かった。つまり、人間が犬を利用したのではなく、犬が人間を利用したかもしれないのだ。
译文
(1)驯服的家犬,原本是人类驯化了狼的同类。(中略)
然而,“人类驯化了狼”的说法充满了谜团。犬与人类共同生活大约始于15000年前的旧石器时代。对于当时的原始人类来说,肉食动物是可怕的敌人。当时的原始人类真的能够产生驯服如此可怕的肉食动物的想法吗?而且养犬意味着必须给它们喂食。生活在仅够糊口的原始人类真的有余力养犬吗?另外,当时的原始人类即使没有犬也能狩猎。他们并没有必须需要犬的理由。
最近的研究表明,不是人类需要犬,而是犬主动接近人类寻求共生。被认为是犬祖先的那些较弱的狼,在群体中的地位较低,食物也不充足。因此,它们可能接近人类,吃人类的残羹剩饭。
弱小的狼虽然不能独立狩猎,但可以帮助人类。据推测,最终人类和犬开始一起狩猎。这样看来,当时接近在自然界中逐渐变得强大的人类对犬来说是有利的。也就是说,可能不是人类利用了犬,而是犬利用了人类。
原文
(2)子どもはこれから自分は大人になっていくのだから、自分はどうなるのだるうとそれは一生懸命に大人を観察している。その大人に魅力を感じれば、あんなふうになりたいと思うかもしれない。ほんのちょっとチャーミングなところを認めれば、ああ失敗しても、どじばかりでもいいんだと思えることもあるかもしれない。あるいは、僕はあんな大人にはならないだろうけれど、あんなふうにするのもすてきだなと感じることもあるに違いない。とにかく子どもは、①そんな風に常に大人を見ているのである。 (中略) 子どもはやがて大人になる。その大人に魅力がなかったら、それは自分に明日がないと言われているのと同じことだ。大人になってもつまらなそうだ。楽しいことがなさそうだと感じたら、君の未来はこの程度のものだとつきつけられているのと変わらない。②これほど子どもにとって不幸なことはない。 大人はいつも子どもに見つめられている、子どもが自分を観察しているということを自覚していなければいけないと思う。わが身をつくるって、いいかっこするのではない。正直に失敗するのなら、子どもより上手に失敗してみせよう、傷つくなら子どもより上手に傷ついてみせよう。人生の先輩としてというより、現役の子どもに対してベテランの子どもとして、ベテランらしいところを見せてやろうじゃないか。そういう気概の大人がたくさんいれば、子どもたちはきっと大人の世界に魅力を見いだすに違いない。それが幸福な子どもの将来につながるのだと思う。 (注 1)どじ:うっかりした失敗 (大林宣彦『父の失恋 娘の結婚-ベそっかきの幸福そうな顔』による) (注 2)気概の:ここでは、強い気持ちを持った
译文
(2)孩子们正在观察着他们将来将成为的大人,他们会想自己将来会变成什么样。如果他们觉得某个大人有魅力,可能会想成为那样的人。即使只是一点点可爱的地方,孩子们也可能认为即使失败,犯点小错误也没关系。或者,他们可能认为自己不会成为那样的大人,但那样的方式也不错。总之,孩子们总是这样观察着大人。
(中略) 孩子们终将长大成人。如果他们觉得大人没有魅力,这就好比告诉他们自己没有未来。如果成为大人后看起来不快乐,没有乐趣,那么孩子们可能会认为自己的未来也就这样了。对于孩子们来说,没有什么比这更不幸的了。
我认为大人应该意识到孩子们总是在观察着我们,孩子们在观察着我们自己。塑造自我并不是为了表现得好看。如果我们必须失败,那就让我们比孩子们更优雅地失败,如果我们必须受伤,那就让我们比孩子们更优雅地受伤。我们不是以人生的前辈身份,而是以现役的孩子们面前的老练孩子身份,展示出老练的一面怎么样?如果有很多这样的大人,孩子们肯定会发现大人世界的魅力。我相信这将导致孩子们有一个幸福的未来。
(注 1)どじ:指不小心犯的错误
(大林宣彦《父亲的失恋 女儿的结婚-幸福的傻瓜脸》中的内容)
(注 2)気概の:在这里指的是拥有坚强意志的人
原文
(3)科学記者を始めた20年ほど前、記者の訪問を歓迎しない科学者は、決して珍しくなかった。「新聞記者との付き合いには何のメリットもなく、時間の無駄。記者と親しい科学者は、同僚からうさんくさい目で見られる。真理の探究に没頭する科学者が、記者なんていう世俗を相手にしては沽券(注1)にかかわる」というわけだ。それが今では、まったく違う。
科学者も、研究に税金を使うからには自分の仕事を積極的に世間に説明するのが当然だとみなされ、大学や研究所はメディア戦略を練るまでになった。変われば変わるもんだ。(中略)
科学者側の広報が巧みになればなるほど、科学ジャーナリズムは科学者集団のたんなる宣伝係で仕事をした気になってしまいかねない。
「サイエンス」や英国の「ネイチャー」に載る科学者の論文を、どの新聞も毎週のように記事にして紹介している。その多くが、これらの論文誌の巧みな広報資料や研究者の記者発表をもとにしているのだが、これなどまさに、何を社会に伝えるかは自分で決めるというジャーナリズムの要(注2)を、科学者集団側になかば預けてしまっているのではないか。
自分でネタ探しをするよりも、このほうがたしかに効率的なのだ。
米国の科学ジャーナリズムの教科書には、科学者たちはマスメディアを自分たちの広報機関のようにとらえるものだと書いてある。科学ジャーナリズムは、広報戦略に長けてきた(注3)科学者たちとどう付き合っていくべきか。その哲学と戦略を、こちら側も改めて肝に銘じて(注4)おかなければならない時代になった。
(YOMIURI ONLINE 2010年3月7日取得による)
译文
(3)大约20年前,当我刚开始做科学记者时,不欢迎记者访问的科学家绝非罕见。“与新闻记者交往没有好处,只是浪费时间。与记者关系密切的科学家,会被同事们用怀疑的眼光看待。那些沉迷于探索真理的科学家,与记者这样的世俗人物打交道,会损害自己的声誉”,这就是当时普遍的看法。但现在情况完全不同了。
科学家们也认为,既然使用税金进行研究,那么积极地向公众解释自己的工作是理所当然的,大学和研究所甚至开始制定媒体战略。真是变化无常。(中略)
随着科学家方面的公关技巧越来越熟练,科学新闻界可能会感到自己变成了科学家团体的纯粹宣传部门。
“科学”和英国的“自然”杂志上发表的科学家论文,各大报纸几乎每周都会报道并介绍。这些报道很多都是基于这些科学期刊的巧妙公关资料和研究人员的新闻发布会,这难道不是在某种程度上将决定向公众传达什么内容的新闻业核心责任,交给了科学家团体吗?自己寻找新闻素材当然比这更费时费力。
美国的科学新闻教科书上写着,科学家们将大众媒体视为自己的公关机构。科学新闻界应该如何与那些擅长公关策略的科学家们打交道,我们必须重新铭记这一哲学和战略。
(摘自YOMIURI ONLINE 2010年3月7日)
原文
暮らしの中で身近な木といえば、街路樹と公園の樹木、そして住宅の庭の木あたりでしょう。いずれも毎日目にはしているものの、あらためて意識することは少ないと思います。でも、例えばこれがすべて枯れてしまったとしたらどうでしょう。なんとも寂しく、無味乾燥な、あるいは何か病気を連想させるようなイメージの街になってしまうのではないでしょうか。また、昨今では、維持管理の面などから街路樹を植えない街などもあるようですが、一見近代的、未来都市的なイメージもしますが、潤いや安らぎのない街のようにも見えます。このように街の樹木は、実はとても大きな役割を持っています。
では、この木々たちは、ただ植えるだけ、存在するだけでいいのでしょうか。そうではありません。そこに意味や意義がなければならないのです。わかりやすく言うと、街路樹の樹種を何にするかというようなことです。その土地の植生(注1)を踏まえ、その上に歴史性や未来性を重ね合わせる。季節の移ろいの中で、人々がその木をどのように眺めながら暮らしていくのか。そんな積み重ねの上にはじめて「ここにはこの木を植えよう」ということになる。それがその木がその場所に存在する意義です。
住宅の庭木も同じです。単に自分の好みばかりでなく、その木が住宅街の小路をどのように演出するのか、周りとの調和はどうなのか。そんなことを考えていくのが街づくりの中の「木」です。昨今のガーデニングブームで、確かに個々の家の庭は立派になりました。花や木の種類もずいぶん増えて、ひと昔前には無かったような色や形も見られます。そしてガーデニングをする人々の情報交流も盛んとなり、新たなコミュニティも生まれているようです。しかし、いま一つ自分の庭から外に広がっていない感じがします。道路や公園は地域にとっての共有の庭であり、個々の部分と共有の部分が美しくなってこそはじめて全体が美しくなるのです。美しく楽しい庭を作っている人々には、もっと欲張って美しく楽しい街を作ってほしいと思います。
「愛でる」という言葉があります。これは主に植物に対して使われます。満開の桜や初夏の新緑、真夏の木陰や秋の紅葉…。私たちは折々に(注2)木々を眺め、そこに日々の暮らしを重ね合わせたり、育ちゆく木々に子供達の明るい未来を願ったりしているのではないでしょうか。そしてそんな思いをこめて水やりや手入れをする。これが「愛でる」ということだと思います。その愛でる心と愛でられる木々があってはじめてよいまちとなるのです。
(加藤美浩「街づくりのススメ」による)
(注1)その土地の植生:その土地にどのような植物が生えているか (注2)折々に:ここでは、機会があるごとに
译文
在日常生活中,我们身边常见的树木可能是街道上的行道树、公园里的树木,以及住宅庭院中的树木。虽然我们每天都看到它们,但很少会特别意识到它们的存在。但是,想象一下如果它们全部枯萎了会怎样呢?街道可能会变得寂寞、单调,甚至让人联想到疾病。此外,最近有些地方出于维护管理的考虑,选择不种植街道树木,虽然看起来现代化、未来感十足,但同时也显得缺乏生机和宁静。实际上,城市中的树木扮演着非常重要的角色。
那么,这些树木仅仅是种植在那里、存在就行了吗?并非如此。它们必须具有意义和价值。简单来说,就是选择什么样的树种作为行道树的问题。要考虑当地的植被(注1),并在其上叠加历史性和未来性的考量。在季节更迭中,人们会如何看待这些树木并生活下去。只有在这样的积累之上,我们才会得出“应该在这里种植这种树”的结论。这就是树木存在于那个地方的意义。
住宅庭院中的树木也是如此。我们不仅要考虑个人喜好,还要考虑树木如何装饰住宅区的小路,以及与周围环境的和谐。这就是城市规划中关于“树木”的思考。最近的园艺热潮确实使得许多家庭的庭院变得壮观。花卉和树木的种类大大增加,出现了过去未曾见过的颜色和形状。园艺爱好者之间的信息交流也变得活跃,新的社区正在形成。然而,总感觉这种热情并没有从个人的庭院扩展到外面。道路和公园是社区的共享庭院,只有当个别部分和共享部分都变得美丽时,整个社区才会变得美丽。对于那些创造出美丽和快乐庭院的人们,我希望他们能更加贪心地去创造一个更美丽和快乐的城市。
“欣赏”这个词常用于植物。满开的樱花、初夏的新绿、盛夏的树荫、秋天的红叶……我们不时地观赏树木,将日常生活与之联系起来,或者在成长的树木上寄托孩子们光明的未来。并且,带着这样的想法去浇水和照料它们。这就是“欣赏”的含义。有了欣赏的心和被欣赏的树木,才能构成一个美好的城市。 (摘自加藤美浩《城市规划的建议》)
原文
建築の設計をやっていると様々な職人に出会う。大小を問わずどの現場でも一人や二人、主役を張れる(注1)人がいる。そうした人に出会うのが、現場に通う楽しみのひとつだ。長い時間、図面にばかり接していると、現実を離れて思考が一人歩きする二とがよくある。そんな時、彼らからもらう情報がかけがえのない(注2)ものであることが分かる。我々が作り出す図面は、線で描かれた抽象的な記号に過ぎない。彼らは物に触れている。経験則によって裏付けられた、物に近い、深い確かな情報を持っている。
図面は人間の頭の中だけで作り出されたものだ。それを現実の建物に移し替えるには、木や鉄やコンクリートといった物から手によって直接に得られる情報が不可欠だ。頭で生み出されたものは、思い込みや錯覚によって間違っていることが多いからだ。
今はコンピュータと情報通信の時代だ。それにともなって、手を動かす機会がどんどん少なくなってきている。建築の設計でも CAD(コンピュータ利用設計)化の勢いはすさまじい。しかし、その図面は、設計の全体を把握しにくい。きれい過ぎて、何であれ、すべてうまくいっているように見えてしまう。手を経ずに、頭の中だけで作業が完結してしまっているからだろう。
トレーシングペーパー(注3)に鉛筆で苦労をして描かれた旧来(注4)の図面は、そこに描く人の感情が入っている。 うまくいっていないところは消しゴムで消し、描き直して修正していく。技術的に問題のあるところ、デザイン的にうまくいっていないところほど、線はにじみ、トレーシングペーパーは人の手の脂で汚れてくる。何回も描き直した個所は、しまいには擦り切れて穴が明いてしまうこともある。
描いた当人の自信がなければ、鉛筆の線にもその迷いを見て取ることもできる。慣れてくると、図面上の線から、描いた人の経験的なレベルや人柄さえ分かるようになる。手書きの図面には、捨て難い様々な種類の情報が塗り込められている。均質な図面の向こう側に人の姿が見えにくい分、CADでは大きなリスクを見落とす可能性もある。
手から遠いコンピュータの出現によって、リスクの所在をかき取ることが、旧来の経験則では難しくなってきている。これは設計に限ったことではないだろう。今や情報通信とコンピュータはあらゆる分野に浸透し、社会全体を変えつつある。頭から生み出されたものが暴走している。リスクの所在が、より巨大で、見えにくくなった。
どこかでそれを、生身の身体を持つ人間の側に引き戻す必要がある。手から得られる情報は、効率は悪いが、現実の世界をまさぐって(注5)得られるものだ。その人の身体だけにとどまる固有の情報といってもよい。忘れられつつある手の行き場を考える必要があるだろう。
(内藤廣『建築のはじまりに向かって』による)
(注1)主役を張る:ここでは、主要な役割を果たす
(注2)かけがえのない:他に代わりがないほど貴重な
(注3)トレーシングペーパー:ここでは、設計図を描くための紙
(注4)旧来の:昔からの
(注5)まさぐる:手探りをする
译文
从事建筑设计工作时,会遇到各种各样的工匠。无论工程大小,现场总有一两个能扮演主角(注1)的人。遇到这样的人是现场工作的一大乐趣。长时间只和图纸打交道,思考容易脱离现实,独自漫步。这时,从他们那里得到的信息显得无比宝贵(注2)。我们制作的图纸,不过是用线条描绘的抽象符号。而他们接触实物,拥有基于经验法则的、接近实物的、深刻而确切的信息。
图纸是仅在人脑中创造出来的产物。要将其转化为现实中的建筑,直接从木材、钢铁、混凝土等物质中获得的信息是不可或缺的。因为头脑中产生的东西,往往因为主观臆断或错觉而容易出错。
现在是计算机和信息通信的时代。随之而来的是,动手操作的机会越来越少。在建筑设计中,CAD(计算机辅助设计)化的趋势非常迅猛。然而,这样的图纸难以把握设计的整体。它们过于完美,以至于所有东西看起来都运作得很顺利。可能是因为工作在没有动手的情况下就在脑海中完成了。
传统的图纸是用铅笔在描图纸(注3)上辛苦绘制的,其中融入了绘图者的情感。不顺利的地方用橡皮擦掉,重新绘制和修正。技术上有问题的地方,设计上不理想的地方,线条会晕开,描图纸也会沾上人的手汗而变得脏污。反复绘制的地方,最终可能会磨破,出现洞。
当绘图者缺乏自信时,甚至可以从铅笔的线条中看出其犹豫。随着经验的积累,甚至可以从图纸上的线条看出绘图者的经验和个性。手绘图纸中蕴含着无法替代的多种信息。与均质的计算机图纸相比,人的身影在背后显得模糊,使用CAD时也可能遗漏了巨大的风险。
计算机的出现使得远离手工操作,旧有的经验法则难以捕捉风险所在。这不仅仅是设计领域的问题。如今,信息通信和计算机渗透到所有领域,正在改变整个社会。头脑中产生的东西正在失控。风险的所在变得更大,更难以看清。
在某处,我们需要将其拉回到拥有血肉之躯的人类这边。虽然手工作业效率低下,但它能获得的是通过探索现实世界得到的信息。这些信息可以说是仅限于那个人身体的信息。我们需要考虑被遗忘的手的去向。
(摘自内藤廣《建筑的起源》)
原文
A
雑談はいろいろな意見を交換し合うことによって、ヒントを得ようというスケールの大きな場である。そこにいる誰もが自由に発言する権利を持っている。仮に自分とは反対意見であっても、まずは傾聴するという姿勢を保つこと、心理学のカウンセリングと同じである。
そして相手の発言に対して、自分の意見を軽い気持ちで述べる、それが雑談である。
どんなに間違っている、ばかばかしいと思われる意見であっても、いったんそれを受け入れること。「なぜあの人はこのような発言をするのか」と考えていくと、自分がそれまで見落としていたことがあることに気がつくこともある。
「話し上手は聞き上手」ということわざがあるように、雑談では「いかに発言するか」よりも「いかに聞くか」が大切になる。
(多湖輝『人の心をつかむ「雑談力」情報が集まる「雑談力」』による)
B
雑談は無駄だという人がいるが、本当にそうだろうか。辞書を調べると「無駄話」という意味もあるが、「さまざまなことを気楽に話し合うこと」という意味もある。気楽な気持ちのとき、人は本音を話すものだ。ばかばかしいと思う話もあるかもしれないが、雑談の中から相手の人間性が見えてくる。
そうはいっても、気楽に話せる雰囲気を作るのは簡単なことではない。まずは、自分から話のきっかけになりそうな小さなエピソードを話そう。相手が話に乗ってきたと思ったら、そこで自分の本音を話してみよう。そうすれば、相手もやがて心を開いて話し始めるだろう。そうなれば、雑談も意味のある時間となる。
(注)話に乗る:ここでは、話に興味を持つ
译文
A
闲聊是一个通过交换各种意见来获取灵感的大型平台。在场的每个人都有自由发言的权利。即使对方持有与自己相反的意见,首先应保持倾听的态度,这与心理学中的咨询是一样的。
然后,对于对方的发言,轻松地表达自己的观点,这就是闲聊。
即使对方的意见看起来是错误的、荒谬的,一旦接受它,试着去思考“为什么那个人会这样说”。这样,有时你会意识到自己之前忽视了的事情。
正如谚语所说,“善于说话的人也是善于倾听的人”,在闲聊中,“如何发言”不如“如何倾听”来得重要。
(摘自多湖辉《掌握闲聊技巧,信息汇集的闲聊技巧》)
B
有些人认为闲聊是无用的,但真的是这样吗?虽然查字典会发现“无用的谈话”是其含义之一,但也有“轻松地交谈各种事情”的意思。当人们心情放松时,他们往往会说出真心话。虽然可能会觉得有些话题荒谬可笑,但在闲聊中,你可以看到对方的人性。
尽管如此,创造出轻松交谈的氛围并非易事。首先,试着分享一些可能成为谈话契机的小故事。如果你感觉到对方对谈话产生了兴趣,那么就试着表达自己的真实想法。这样,对方最终也会开始敞开心扉交谈。如果能做到这样,闲聊也就变成了有意义的时间。
(注)话に乗る:在这里指的是对话题感兴趣。
本文作者:yowayimono
本文链接:
版权声明:本博客所有文章除特别声明外,均采用 BY-NC-SA 许可协议。转载请注明出处!