原文
以下は、ある企業がホームページに掲載したお知らせである。
関川薬品工業株式会社>お知らせ
2017.06.01 重要なお知らせ
すでにご案内させていただいておりますが、西山営業所は5月31日(水)より移転先にて業務を再開しております。しかしながら、移転作業時にファクス機に故障が生じ、本日(6月1日)現在もファクスの送受信ができません。
復旧までには下記の電話もしくはメールをご利用ください。なお、ファクス機が復旧し次第、こちらのホームページ上でお知らせいたします。
関係者の皆様には大変ご迷惑をおかけし申し訳ございませんが、何卒よろしくお願いいたします。
電話番号:020-428-4319
Eメール
@sekikawa.co.jp译文
以下是一家企业在其网站上发布的通知。
关川药品工业株式会社>通知
2017.06.01 重要通知
如先前通知所述,西山营业所已于5月31日(星期三)在新址恢复业务。然而,在搬迁过程中,传真机出现了故障,导致目前(6月1日)无法进行传真发送和接收。
在传真机修复之前,请使用以下电话或电子邮件与我们联系。一旦传真机恢复使用,我们将立即在本网站上通知大家。 给相关各方带来极大不便,我们深表歉意,并请求您的理解与支持。
联系电话:020-428-4319
电子邮件
@sekikawa.co.jp原文
以下は、動物園の飼育環境について書かれたものである。
動物たちにとって飼育係は大事な環境要因である。展示場としての環境の改善だけでは、動物たちの飼育環境の真の改善にはならない。日々動物と接触する飼育係は、時として動物たちのストレス源になることがある。飼育係がストレス源にならないためには動物をよく観察し、行動に合わせた世話をし、その動物の種としての特徴、個体としての性格を知らなければならない。
译文
以下是对动物园饲养环境的描述。
对于动物来说,饲养员是重要的环境因素。仅仅改善作为展示场所的环境,并不能真正改善动物的饲养环境。与动物日常接触的饲养员有时可能成为动物的压力源。为了避免成为压力源,饲养员必须仔细观察动物,根据它们的行为进行照顾,并了解该动物种类的特征以及每个个体的性格。
(小宫辉之《物语 上野动物园的历史》)
原文
以下は、人と人とのコミュニケーションについての考察である。
人と人とのコミュニゲーションが希薄化していると言われる今日、それを如何に円滑に、如何に真意を外さずに行うかは、誰にとっても大きな課題だ。
時に人は「力」によって他者を動かそうとする。あるいは「経済力」が人を動かす手段ともなる。企業という組織では、「役職=ポジション」を使って人を動かすケースも多い。
だがそういった「上意下達」(注1)「弱肉強食」のコミュニケーションでは、人は本質的な満足は得られない。人が人である所以(注2)は、力対力の対抗ではなく、他者との「共感」によって「動く」「動かす」ことができる点にある。
(佐渡裕·辻秀一 「感じて動く」による)
(注 1)上意下達: 上に立つ者の考えや命令を下位の者に伝えること
(注 2)所以: 理由
译文
以下是对人际沟通的考察。
在当今社会,人们常说人际沟通变得淡薄,如何顺畅地进行沟通,如何不偏离真实意图,对每个人来说都是一个重大课题。
有时人们试图用“力量”来推动他人。或者,“经济力量”也会成为推动人的手段。在企业这样的组织中,使用“职位=地位”来推动人的例子也很常见。
但是,这种“上意下達”(注1)“弱肉強食”的沟通方式,并不能让人获得本质上的满足。人之所以为人,理由(注2)在于不是通过力量对抗,而是通过与他人的“共感”来实现“被推动”和“推动”。
(佐渡裕·辻秀一《感觉到行动》)
(注 1)上意下達: 将上级的想法或命令传达给下级的行为
(注 2)所以: 理由
原文
以下は、人間と道具の関係についての考察である。
人間には、道具をつくり、その道具に適応しようとする性質がある。そしてその道具に適応し過ぎてしまうことで、本来の人間の能力を削がれてしまうことがある。その適応力が仇(注2)となり、人間がつくった道具により人間が左右される。まるで、人間がつくった道具に人間がつくられてしまうかのように。歩きながらでもスマートフォン(注3)を使いたいという欲求にかられ、挙げ句に視野を大きくそこなわれ、自ら、そして他者をも危険な状況に追い込んでしまう。これもその現象のひとつだ。
(小川和也『デジタルは人間を奪うのか』による)
(注1)削ぐ: 削る
(注2)仇: ここでは、害
(注3)スマートフォン: パソコンの機能もある携帯電話
译文
以下是对人类与工具关系的思考。
人类具有创造工具并适应这些工具的特性。然而,过度适应这些工具有时会导致削弱人类本来的能力。这种适应性反而成为我们的敌人(注2),使得人类被自己创造的工具所左右。仿佛是人类被自己创造的工具所塑造。受到即使走路时也想使用智能手机(注3)的欲望驱使,最终导致视野大幅受损,不仅自己,还可能将他人置于危险之中。这也是这种现象的一个例子。
(小川和也《数字技术会剥夺人类吗?》)
(注1)削ぐ: 指削减
(注2)仇: 在这里指害处
(注3)スマートフォン: 具有电脑功能的移动电话
原文
以下は、自己表現とコミュニケーションに関する考察である。
よく知っている人を相手に自己を語るのは簡単だが、お互いによく知らない相手に自己を語るというのは非常に難しい。
よく知っている相手との間に共通の文脈ができあがっているので、その文脈にふさわしい自分を提示していけばよいから、ほぼ自動化した形で自己を語ることができる。たとえば、相手がこちらのことを勇ましい豪傑(注1)とみなしているなら、自分の中の武勇伝(注2)的なエピソードを中心に語ることになるだろうし、相手がこちらのことを温厚な紳士とみなしているなら、自分の中のおだやかな部分を中心に語ることになるだろう。相手との文脈によって語り分けるからといって、決して嘘をついているわけではない。どちらも真実なのだ。
困るのは、よく知らない人が相手である場合だ。共通の文脈ができあがっていないため、どのような自分を語り出していけばよいのかがわからない。逆に言えば、共通の文脈による制約がないぶん、どんな自分でも自由に演出し、語り出していくことができる。だからこそ、迷い、悩んでしまうのだ。
こうした事情からわかるのは、僕たちは自分のことをいろいろな角度から語ることができるということだ。 (中略)
自分の姿がぼんやり(注3)にしか見えないうちから、まずは語ることを始めなければならない。
語ることによって、自分の姿が語りの方向につくられていく。
(榎木博明『(本当の自分)のつくり方---自己物語の心理学』による)
(注1)豪傑: 勇気のある、強い人
(注2)武勇伝的な: ここでは、勇ましい
(注3)ぼんやりに: はっきりしないで、曖昧に
译文
以下是对自我表达和沟通的思考。
向熟悉的人讲述自己是容易的,但向彼此不太了解的人讲述自己则非常困难。
与熟悉的人之间形成了共同的语境,因此只需展示与该语境相适应的自己,几乎可以自动地进行自我表达。例如,如果对方认为你是勇敢的英雄,你可能会以自己勇敢的事迹为中心来讲述;如果对方认为你是温和的绅士,你可能会以自己温和的一面为中心来讲述。根据与对方的语境来讲述,并不意味着你在撒谎。两者都是真实的。
困难的是,当对方是你不太了解的人时。因为没有形成共同的语境,所以不清楚应该从何说起。反过来说,因为没有共同语境的限制,你可以自由地塑造任何形象并开始讲述。这正是让人感到迷茫和烦恼的原因。
从这些情况可以看出,我们可以从不同的角度讲述自己。 (中略)
即使自己的形象还模糊不清,我们也必须开始讲述。
通过讲述,自己的形象会随着叙述的方向被塑造出来。
(榎木博明《(真正的自己)的塑造方法---自我叙述心理学》)
原文
ウエブ時代に突入して、私たちの生活には、世界中のありとあらゆる情報が溢れかえることとなった。その量は膨大で、しかも、時間とともに流れ去ることもなく、データとして刻々と更新され続けている。一方で、私たちの毎日はといえば、相も変わらず24時間しかなく、寿命は80年程度だ。どうやったって、そのすべてを網羅することなどできない。私たちは、仕方なく、どんな情報とも、どんな言葉とも、忙しなく(注1)、広く浅いつきあいをするようになって、かと我に返ると、自分は果たして、本当に、以前よりも、世間や人間に対する理解が深くなっているのだるうかと、不安を感じるようになっている。
そういう時代に、小説は、まさしく「小さく説く」のである。
この広大無辺(注2)で、複雑極まりない世の中を、そして、そこに生きる人々の心の奥底を、誰の手のひらにでも収まるほどのコンパクトなサイズに圧縮して、濃密な時間とともに体験させてくれる。それが、小説だ。
確かに小説は、絵や形像のように、一目で見ることのできる物体ではない。ある一定の記号の連なりである以上、時間をかけて、前から順番に最後まで辿っていかなければならない。しかし、その間、小説は絶えず、読者に語りかけ、読者の耳を貸し、読者の手を引き、読者と一緒に感じ、一緒に考える。それは、途方に暮れるような情報の海を泳ぎ回るのとは、まったく別の興味を与えてくれるはずだ。
(平野啓一郎『小説の読み方-感想が語れる着眼点』による)
(注1)忙しなく: ここでは、時間に追い立てられるように
(注2)広大無辺で: 限りなく広くて
(注3)途方に暮れる: どうしたらよいかわからなくなる
译文
随着我们进入网络时代,我们的生活中充斥着来自世界各地的各种信息。这些信息量巨大,而且不会随着时间流逝而消失,它们持续不断地以数据形式更新。另一方面,我们的日常生活仍然是24小时,寿命大约80年。我们无论如何也无法掌握所有这些信息。我们不得不忙忙碌碌地、广泛而肤浅地与各种信息和言辞打交道,当我们停下来反思时,我们会感到不安,怀疑自己是否真的比以前更深入地理解了社会和人类。
在这样的时代,小说恰恰是“小规模地讲述”。
它将这个广阔无垠、极其复杂的世界,以及生活在这个世界中的人们内心深处的情感,压缩到可以放在任何人手掌中的小巧尺寸,并与浓密的时间一起提供给读者体验。这就是小说。
的确,小说不像图画或形象那样,可以一目了然。由于它是一定数量的符号序列,我们必须花费时间,从前到后逐步跟随。然而,在这个过程中,小说不断地与读者对话,倾听读者,引导读者,与读者一同感受,一同思考。这与在令人迷茫的信息海洋中游泳是完全不同的体验。
(平野启一郎《小说的读法—能够表达感想的视角》)
原文
以下は、人間の睡眠についての考察である。
一日に八時間眠るのが人間社会の決まりごとであるかのように言う人がいる。それには何か特別な根拠があるのか。 もともと睡眠は、適応のための技術である。様々な身体内部および外部の環境条件に合わせて、脳をうまく休息させよりよく活動させるための柔軟な生存戦略である。多少の無理や融通が利かないはずはない。
しかも、眠ることは筋肉を緩ませる、心臓レベルを下げる、栄養補給を断つなどの危険を伴う"命題"の行為だ。それだけに、睡眠中の安全が確保できる条件を整えてからでないと、眠るわけにいかないというのが生き物の鉄則だ。また、優先してなすべきことがほかにあるから、睡眠は、自然に順位をそちらに譲るのが通例だ。
そうなると、安心して睡眠に割り当てられる時間は、かなり限られたものになってしまう。一日のうちの限られた条件と時間のもとでうまく眠り、うまく目覚めるために、高等動物は進化の過程で様々な方式を開発してきた。だから、睡眠は本来多様性に富んだものだ。
人間の睡眠も、生物学的にはまったく同様の適応力を備えている。しかし、人類は文明の発達とともに、睡眠を人為的な規則で拘束した。社会活動や季節変化などをもとにして、睡眠の持つ多様性を一定の枠の中に押し込めてしまったのだ。
こうして、世の中では、大人は一日に八時間まとめて寝るのが基準であるかのように考える傾向が定着した。ここから睡眠時間の不足を気にするという不幸が発生したのだ。一日に八時間くらい寝床の中で過ごす人が大半を占めるにせよ、その数値に生物学的な根拠はない。
(井上昌次郎『睡眠の技術--今日からぐっすり眠れる本』による)
译文
以下是对人类睡眠的考察。
有人认为一天睡八个小时是人类社会的既定规则,但这有什么特别的依据吗?
睡眠原本是一种适应技术,是为了适应各种身体内部和外部环境条件,使大脑得到适当的休息并更好地活动的灵活生存策略。不可能没有一点灵活性和适应性。
而且,睡眠是一种伴随着危险的行为,比如放松肌肉、降低心脏活动水平、停止营养补给等。因此,只有在确保睡眠中的安全条件得到满足后,生物才能安心地进入睡眠状态。此外,由于有其他更优先的事情要做,睡眠自然会顺位让位于其他活动。
这样一来,能够安心分配给睡眠的时间就变得相当有限了。在有限的条件和时间内,高等动物在进化过程中开发出了各种睡眠方式,因此睡眠本质上是多样化的。
人类的睡眠在生物学上也具备同样的适应能力。然而,随着文明的发展,人类用人为的规则限制了睡眠。基于社会活动和季节变化等因素,将睡眠的多样性强行纳入了一定的框架之中。
因此,在社会上形成了这样一种倾向,认为成年人一天睡八个小时是标准。由此产生了对睡眠时间不足的担忧。尽管大多数人可能每天在床上度过大约八个小时,但这个数字并没有生物学上的依据。
(井上昌次郎《睡眠的技术—今天开始能睡得香的书》)
原文
最寄り駅に向かう途中、骨董屋さんの前を通る。
その店が越して来たのは十年ほど前だろうか、はっきりした記憶はないのだが、夫のひとことで興味を持った。「毎日どんどん売れる商売じゃないだろうけど、それにしても客が入っているのを見たことないよ」という。確かにいつもひっそりと、主人とおばあさんは店の奥にじっと座っているばかり。宅配便の梱包された包みがたくさん置かれていることから、ネット販売専門の店なのだろうか、夫はその後も不思議がっていた。
それから一年ほどして、ようやく謎が解けた。
面識はないが、時おり読んでいた同世代の女性のブログにこの店を訪れた話が載っていた。壊れてしまった陶器の修理を頼みに行ったというのである。漆を使った金継ぎ、銀継ぎと呼ばれる手法で損なわれた部分を修復するのだが、その仕上がりは瑕瑾ではなく、景色に見立てることができるほど美しい。
思いがけない近所にそんな専門の工房があったとは。新鮮な驚きとともに、ひと筋の光が射し込んで来るような気がした。我が家にも欠けたからといって捨てられず、破片をそっと薄紙に包んだままにしているものがある。祖母が求め、そして壊してしまった十客揃いの小鉢のひとつ。義父が好んで使っていたという杯。これらをもとの形にもどすことができたら、どんなに心和むことだろう。
さっそく店を訪れてみると、「やあ、いらっしゃい」と主人はまるでなじみの客のように迎えてくれた。作業の合間に手をゆるめて(注5)いることがあって、店の前の人の行き来を眺めている。
「だから近所に住んでいる人のことはなんとなくわかるんです。」見ているのはこちらばかりと思ったら大間違いだ。
すっかり気が楽になって、こちらの事情を打ち明けた。
(中略) 買い替えた方が安上がりとわかっているものでも、使い続けてきた愛着があって手放せないという人が増えている。一方で高価な器を使う料理屋さんが、段ボールいっぱい送りつけてくることもある。「前に修理したものがまた新たに壊れて戻ってきたり。時々、どういう扱いをしてるのかなと思うことがありますよ。」
形あるものはいずれは壊れる。この道理があるから、歳月を経て伝えられたものに感謝の念も湧くし、儚さと美しさは同義でもある。うっかり手を滑らせる瞬間は誰にもあり、取り返しのつかない事実に直面すると、ため息が出るほど心に重い。
金継ぎはそんな心の痛手までやさしくいたわってくれる伝統の技術だ。もしもの時に助けてくれる人がいると思うと心底有り難い。けれど、だからこそ指先には神経を使ってそんな扱いはしないと、見事に修復された器を手に思っている。
译文
在前往最近的车站的路上,我经过了一家古董店。
这家店搬来大概有十年了吧,我记不太清楚了,但丈夫的一句话引起了我的兴趣。“这不是那种每天都能卖出很多东西的生意,不过奇怪的是,我从未见过有客人进出。”确实,店里总是静悄悄的,店主和一位老妇人总是静静地坐在店的深处。由于有很多装着快递包裹的盒子,我猜想这可能是一家专门从事网络销售的店。之后,丈夫也对此感到好奇。 大约一年后,谜底揭开了。
我虽然不认识她,但偶尔会阅读一位同龄女性的博客,在那里看到了关于这家店的访问记。她去那里是为了修理破碎的陶器。使用漆的金継ぎ、银継ぎ技术修复损坏的部分,修复后的效果不是瑕疵,而是美得可以当作风景来看。 没想到近邻有这样的专业工作室。我感到既新鲜又惊喜,仿佛有一束光线射入心中。我家也有破碎而舍不得扔掉的东西,用薄纸小心翼翼地包着碎片。那是祖母珍爱的一套小钵中的一个,还有义父生前喜欢用的杯子。如果能将它们恢复原状,那将是多么令人欣慰的事情啊。
我立刻去店里拜访,店主热情地迎接我,仿佛我是常客一样。“啊,欢迎光临。”他有时会在工作中稍微放松一下,观察着店前的人来人往。
“因此,对于住在附近的居民,我大致能知道一些情况。”我以为他只是在看我,但实际上并非如此。 我完全放松下来,向他坦白了我的情况。
(中略) 即使知道买新的更划算,但有些人因为对长期使用的东西产生了感情而舍不得丢弃。另一方面,使用昂贵餐具的餐馆也会送来装满纸箱的破损器皿。“之前修理过的又坏了,又送回来了。有时我会想,他们到底是怎么对待这些东西的。” 有形的东西最终都会破碎。正因为这个道理,我们才会对那些经历岁月流传下来的东西心存感激,脆弱与美丽其实是同义的。每个人都有可能不小心失手,面对无法挽回的事实,我们会深深地叹息。
金継ぎ是一种能够温柔地抚慰心灵创伤的传统技术。想到在困难时有人能帮助我们,心里感到非常感激。但正因如此,我们会更加小心地使用,不会粗心大意地对待那些经过精心修复的器皿。
原文
以下は、科学と文化の関係についての考察である。
私は、科学が再び文化のみに寄与する営みを取り戻すべきと考えている。壁に飾られたピカソの絵のように、なくても生きていけるが、そこにあれば楽しい、なければ何か心の空白を感じてしまう、そんな「無用の用」としての科学である。世の中に役立とうというような野心を捨て、自然と戯れながら自然の偉大さを学んでいく科学で良いのではないか。好奇心、探求心、美を求める心、想像する力、普通性への憧れ、そのような人間の感性を最大限練磨して、人間の可能性を拡大する営みのことである。
むろん、経済一辺倒の現代社会では、そんな原初的な科学は許されない。一般に文化の創造には金がかかる。ましてや科学は高価な実験器具やコンピューターを必要とするから一定の投資をしなければならず、そうすれば必ずその分の見返りが要求される。「文化より経済のコメを」という声も絶えることがない。社会もムダと思われるものに金を投じることを忌避するからだ。それが「役に立つ」科学となれなければならない要因で、科学者もセールスマンのように次々に目新しい商品を用意して社会の要求に迎合していかなければならない。それを逆手にとって、あたかも世の中を牛耳っているかのように尊大に振舞う科学者すら登場するようになった。これほど社会に貢献しているのだから、もっと金をよこせというわけである。企を通しての科学者と社会の病的な状態と言えるだろうか。
それでいいのかと改めて考え直してみる必要がある。確かに科学には金がかかり、それには社会の支持が欠かせない。「無用の用」にすらならないムダも多いだろう。しかし、ときに科学は世界の見方を変える大きな力を秘めている。事実、科学はその力によって自然観や世界観を一変させ、社会のあり方に大きな変化をもたらしてきた。社会への見返りとは、そのような概念や思想を提供する役目にあるのではないか。それは万に一つくらいの確率であるかもしれないが、科学の努力抜きにしては起こり得ない貢献である。もちろん、天才の登場を必要とする場合が多いが、その陰には無数の無名の科学者がいたことを忘れてはならない。それらの積み重ねがあってこそ天才も輝けるのである。
今必要なのは、「文化としての科学」を広く市民に伝えることであり、科学の楽しみを市民とともに共有することである。実際、本当のところ市民は「役に立つ科学」ではなく、「役に立たないけれど知的なスリルを味わえる科学」を求めている。市民も知的冒険をしたいのだ。(中略)科学の行為は科学者という人間の営みだから、そこには数多くのエピソードがあり成功も失敗もある。それらも一緒に紡ぎ合わせることによって「文化としての科学」が豊かになっていくのではないか。それが結果的に市民に勇気や喜びを与えると信じている。
(池内了「科学の限界」による)
(注1)戯れ: ここでは、遊びや楽しみの意味
(注2)練磨: 磨き上げること、鍛錬すること
(注3)忌避: 避けること、嫌うこと
(注4)牛耳る: ここでは、支配する、掌握する意味
(注5)よこせ: ここでは、提供せよ、与えよという意味
(注6)病引き: ここでは、不健全な関係や状態を指す
译文
以下是对科学与文化关系的思考。
我认为科学应该回归到仅对文化有所贡献的活动中去。就像挂在墙上的毕加索画作一样,虽然不是必需品,但有了它会感到快乐,没有它则会感到心灵上的空白,这就是科学作为“无用之用”的存在。放弃对社会有所贡献的野心,通过与自然嬉戏来学习自然的伟大,这样的科学不也很好吗?这是一种通过磨练好奇心、探索欲、对美的追求、想象力以及对平凡的向往等人类感性,来扩展人类可能性的活动。
当然,在当今这个以经济为中心的社会里,这样的原始科学是不被允许的。一般而言,文化的创造需要资金,更不用说科学了,它需要昂贵的实验器材和计算机,因此必须进行一定的投资,而投资自然要求相应的回报。社会上总是有声音说“要经济的米”,因为社会不愿意在看似无用的事物上投资。这就是科学必须成为“有用的”科学的原因,科学家们不得不像销售员一样不断准备新的产品来迎合社会的需求。甚至有些科学家利用这一点,表现得好像他们掌控了世界一样傲慢。这可以说是科学者和社会之间的一种病态关系。
因此,我们需要重新考虑这是否合适。的确,科学需要资金,这需要社会的支持。“无用之用”甚至可能变成浪费。然而,有时科学拥有改变世界视角的巨大潜力。事实上,科学已经通过其力量改变了自然观和世界观,给社会带来了巨大的变化。社会的回报,或许就是提供这样的概念和思想。虽然这可能只有万分之一的概率,但这是科学努力之外不可能发生的贡献。当然,天才的出现往往需要,但我们不应忘记那些无数无名的科学家们。正是这些积累才使得天才得以发光。
现在我们需要的是广泛地向市民传播“作为文化的科学”,并共享科学的乐趣。实际上,市民真正寻求的是“虽然无用但能体验知性刺激的科学”。市民也想要进行知识冒险。(中略)科学行为是科学家这一人类活动,其中包含了许多故事,有成功也有失败。将这些编织在一起,“作为文化的科学”将会变得更加丰富。我相信这最终会给市民带来勇气和喜悦。
(池内了《科学的界限》)
原文
A
以下は、外来語・外国語の使用に関する考察である。
国際化の進展や新技術の開発などに伴って、新しい概念やニュアンスの提示など、外来語・外国語(注)を使用せざるを得ない面があり、また、既に外来語・外国語を用いた方がその日本語訳よりも分かりやすい場合もある。そうした場合は別として、一般的には、相手や目的に応じて十分な配慮の下に、その外来語や外国語を使用するか否かの判断がなされる必要がある。外来語・外国語は基本的にその語に対する知識がないと伝達不能になることが多い。そういう意味で、広く国民一般を対象にしている官公庁、新聞・放送等では、簡単に日本語に言い換えられる外来語・外国語や耳慣れない外来語・外国語などは安易に使わないようにすべきである。
(文化庁http://kokugo.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/kakukai/20/toushin05/06.html 2015年10月23日取得による)
B
「コースター」、「ケア」など多くの外来語・外国語が私たちの生活の中にあふれている。外来語・外国語は意味があいまいなので使用すべきではないという声も多い。しかし、グローバル化する現代では、既存の日本語で言い換えにくい新しい概念や事象を表す上で、外来語・外国語を使うのは仕方がないことだ。
一方、ある調査によると、若い世代は外来語・外国語使用の増加を容認し、使用する割合が高いが、年齢の高い世代ではその割合が低いそうだ。このような違いが、世代間のコミュニケーションの障害になるという心配もある。また、年齢が高くなってから利用機会が多くなる医療や福祉の分野で、外来語・外国語の使用が多いことも問題だ。外来語・外国語を使用する際には、相手が理解できるかどうかを考えることも大切だ。
(注)外来語・外国語: ここでは、片仮名語
译文
以下是对使用外来语和外语的考量。
A
随着国际化进程和新技术的发展,有时不得不使用外来语和外语(注)来表达新的概念和细微差别,而且在某些情况下,使用外来语和外语比它们的日语翻译更容易理解。除了这些情况,一般而言,根据对象和目的,需要在充分考虑后决定是否使用这些外来语和外语。外来语和外语通常需要对该语言有一定的了解才能传达,因此,在面向广大国民的政府机关、新闻和广播等领域,应避免轻易使用那些可以简单用日语表达的外来语和外语,或者那些不常见的外来语和外语。
B
“ coaster ”、“ care ”等许多外来语和外语充斥在我们的生活中。有人认为外来语和外语含义模糊,因此不应该使用。然而,在全球化的现代社会中,使用外来语和外语来表达难以用现有日语翻译的新概念和现象是不得已的事情。
另一方面,据某项调查,年轻一代接受外来语和外语使用的增加,并且使用频率较高,而年长一代的使用频率较低。这种差异可能会成为阻碍不同世代间沟通的问题。此外,在医疗和福利领域,随着年龄的增长,人们使用这些领域的频率会增加,而这些领域中外来语和外语的使用较多也是一个问题。在使用外来语和外语时,考虑对方是否能够理解也是非常重要的。
(注)外来语和外语:这里指的是用片假名书写的外来语。
本文作者:yowayimono
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