原文
田川優子様
この度はトラベルライトをご利用いただきありがとうございます。
弊社ホームページよりお申し込みいただいた「小型飛行機で行く曉島」(12月9日発)は、航空券の発売がご搭乗日1か月前からとなるため、現時点では仮予約となっております。ご希望の便が確保できましたら、田川様のご自宅宛に確認書をお送りいたします。
万が一、ご希望に添えなかった場合は、別の便をご提案させていただくこともございます。何卒ご了承ください。
それでは、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
2017年9月10日
株式会社トラベルライト(担当 中村)
電話:024-881-6456(平日1019時・土日祝 918時)
メールアドレス:toiawase@travellight.co.jp
译文
田川优子女士,
感谢您使用Travel Light服务。
您通过我们的网站预订的“乘坐小型飞机前往晓岛”(12月9日出发)由于机票销售是从出发日前一个月开始,目前还处于临时预订状态。一旦我们确保了您所希望的航班,我们会将确认书寄往您的住处。
万一我们无法满足您的要求,我们可能会向您提议其他航班。请您谅解。
期待您的持续支持。
2017年9月10日
Travel Light株式会社(负责人 中村)
电话:024-881-6456(工作日10点至19点,周末及节假日9点至18点)
电子邮件:toiawase@travellight.co.jp
原文
あらゆる仕事はなんらかの形で、その人を世界の中に位置づける。畑仕事のような個人作業でもそうだ。自然のサイクルの中に、自分の存在を確かめることができる。
人はどんなに大金持ちになっても、なんらかの形で働こうとする生き物だとう。お金持ちはお金持ちなりの仕事を、自分でつくり出すはずだ。それは人間が、外の世界との関わり合いを通じてしか自分が存在する実感を得ることができず、またそれを常に渴望していることを示している。
译文
所有的工作都以某种形式将一个人定位在世界之中。即使是像农活这样的个人劳动也是如此。在自然的循环中,人们可以确认自己的存在。
即使人们变得非常富有,他们似乎也会以某种形式想要工作。富人会创造出适合自己身份的工作。这表明人类只有通过与外界的互动才能感受到自己的存在,并且始终渴望这种感觉。
(注)渴望(かつほう)する: 强烈地希望
原文
「すべての歴史は現代史である。」この有名な言葉が示す内容は、われわれが史料(注 1)に対しての場合、結局史料を通して過去を見るのは、ほかならぬ現在のわれわれであり現在の眼(め)である、ということである。われわれは公平無私に(注 2)、また古い時代の人の心になって対処しようとしても、われわれが生きている現在の時代の人間であるということから脱出することはできないからである。
要するに歴史学は、こうした性格をもった学問である。
(注 1)史料: 歴史研究のために必要な文献や遺物など
(注 2)公平無私に: 私的な感情を持たずに公平に
译文
“所有的历史都是现代史。”这句著名的话所表达的内容是,当我们面对历史资料(注 1)时,最终通过这些资料观察过去的是我们自己,即现在的我们和我们现在的视角。即使我们试图公正无私地(注 2),并且站在古人的心境上去处理问题,我们也无法摆脱我们是生活在当下时代的人这一事实。
总之,历史学是一门具有这样特性的学科。
(注 1) 历史资料:为历史研究所需的重要文献和遗物等。
(注 2) 公正无私地:不带个人情感地,公平地。
原文
人間は古い昔から、「人間とは何か」を問うてきた。けれどそれは、早く言えば「人間は動物とどこが違うか?」という問いかけであった。いわく「人間には動物にはない言語がある」、いわく「人間には思想がある」、「人間には文化がある」等々。しかしこの問いかけは、根本的に間違っていた。
問題は「人間は動物とどう違うか?」ではなくて、「人間は他の動物とどう違うか?」ということだったのである。 これに答えるには、人間はどういう動物であるかを問う以外にない。
(注)いわく: ここでは、よく言われるように
译文
自古以来,人类一直在问“人是什么”。简单来说,这个问题其实是“人与动物有何不同?”这样的提问。有人说“人有动物所没有的语言”,有人说“人有思想”,有人说“人有文化”等等。但这样的提问根本上是错误的。
问题不应该是“人与动物有何不同?”而应该是“人与其他动物有何不同?”。
要回答这个问题,我们不得不问人究竟是怎样的一种动物。
(注) いわく: 在这里,意思是像通常所说的那样。
原文
日本には昔から「物見遊山」(注 1)という言葉がありますが、非日常への憧れは観光の一-つの本質です。
しかしその一方で、物見遊山だけに頼った観光地はいずれ必ず飽きられてしまうというのも事実です。例えば富士山を見た外国人が、もう一度富士山だけを見るために訪日してくれるでしょうか?よほど個人的な思い入れでもない限り、そういうケースは稀でしょう。海外からわざわざやって来た旅行者に日本という場所へのリピーター(注 2)となってもらうためには、彼らがまた来たくなる別の工夫が必要です。
どのようなビジネスであったとしても、顧客(=ファン)の存在は決定的な意味を持ちます。そのブランドの価値を認めて長期にわたって買い支えてくれる人の存在なしには安定的な収益は望めません。このことは観光地においても事情は同じです。(中略)
ここで再び、本質的な問いかけが浮かんできます。顧客とリピーターを生み出し、観光・リゾート地として何度も選ばれ続けるためには、一体何が必要なのでしょうか?
本当の意味で旅行者を惹きつけ、その土地のファンとなるのは、名所旧跡のような観光資源だけではありません。重要なのは自分たちとは異なる豊かな「日常性(ライフスタイル)」です。その土地の人たちが生き生きと暮らしていれば、訪れた人はきっとその理由を見つけたくなる。風土に根差した生活様式、独自の食文化、季節ごとの行事、その地の環境が育んだ産業。二回、三回と足を運べば、その度にまた違った表情が見えてくる。その深さを知れば、決して飽きることはありません。
(注 1)物見遊山(ものみゆさん): 見物して遊んでまわること
(注 2)リピーター: ここでは、繰り返し訪れる人
译文
自古以来,日本就有“物见游山”(注 1)这个词,对非日常的向往是旅游的本质之一。
然而,另一方面,仅仅依赖于“物见游山”的旅游地最终一定会让人感到厌倦,这也是事实。比如,看过富士山的外国人会为了再次只看富士山而再次访问日本吗?除非有特别的个人情感,否则这种情况很少见。为了让特意从海外来到的旅行者成为日本这个地方的回头客(注 2),需要有让他们想要再次来访的其他策略。
无论是什么样的业务,顾客(=粉丝)的存在都具有决定性的意义。如果没有长期认可品牌价值并持续购买支持的人,就无法期望稳定的收益。这一点对于旅游地来说也是相同的。(中略)
在这里,我们再次面临一个本质性的问题。为了创造顾客和回头客,让旅游和度假地一次又一次地被选择,究竟需要什么呢?
真正吸引旅行者,让他们成为这个地方的粉丝的,不仅仅是名胜古迹这样的旅游资源。重要的是那里与众不同的丰富“日常性(生活方式)”。如果当地的人们生活得充满活力,来访的人一定会想要找出其中的理由。根植于风土的生活方式、独特的食文化、季节性的活动、当地环境孕育的产业。当你再次、再次地访问,每次都会看到不同的面貌。当你深入了解其深度,就永远不会感到厌倦。
(注 1)物见游山(ものみゆさん): 观光并游玩。
(注 2)回头客: 这里指的是反复访问的人。
原文
芸術作品が私たちにもたらすものは、感動ばかりではない。驚きとか困惑、ときに不快感やイライラ感だったりする。それまでだれも思いつかなかったような形状や色彩や音は、私たちをさまざまなに摇さぶる。
私たちは慣れ親しんだ世界に浸っているとき心地よさに包まれているが、そこから新しいものは生まれない。そういう意味で穏やかで心地よい文化は、保守的で現状肯定的であり、創造性やエネルギーに乏しい。だからこそ、あえて不安とか狂気、驚きといった刺激をもたらしてくれる①天邪鬼(注 1)としての芸術が社会には必要なのである。
そういう意味で芸術は安定した穏やかなものを否定することで生まれる。そうした芸術が誕生すると、社会は大きな包摂性(注 2)をもっているから、トゲトゲしたものもくるんで吞(の)み込んでしまう。すると、また異質な刺激因子としての芸術が必要になってくる。②その繰り返しによって、社会と文化のエネルギーが維持されるのではないか。(中略)
そうした芸術の天邪鬼性は、活力よりも穏やかさが優勢になりがちな成熟社会においてはより重要である。しかも、いまは昔と違って世の中の変化のサイクルがどんどん短くなっており、これは芸術を生み出す側に大きな変化が求められていることを意味している。なぜなら時代の変化に合わそうとすると、必然的に次々と作品を世に出さなければならず、個々の作品の質を高めることが難しくなる。質を高めて完成域に近づいたときには、もう時代は次のサイクルに入っていて次の作品に取りかからなくてはならない。
(注 1)天邪鬼(あまのじゃく): ここでは、逆らったり否定したりするようなもの
(注 2)包摂性(ほうせつ): 中に包み込む性質
译文
艺术作品给我们带来的不仅仅是感动。还有惊奇、困惑,有时甚至是不快感或焦虑感。前所未有的形状、色彩和声音摇撼着我们的心灵。
当我们沉浸在熟悉的世界中时,我们会感到舒适和愉悦,但那里不会诞生新的东西。从这个意义上讲,温和而舒适的文化是保守的,对现状持肯定态度,缺乏创造性和活力。因此,社会需要那种故意带来不安、疯狂和惊奇等刺激的艺术,即这里所说的“逆反者”(注 1)。
在这种意义上,艺术是在否定稳定和宁静中产生的。当这样的艺术诞生时,社会具有巨大的包容性(注 2),能够包容那些尖锐的东西。然后,又需要新的艺术作为异质的刺激因素。通过这种循环,社会和文化的活力得以维持,不是吗?(中略)
这种艺术的逆反性,在活力被宁静所取代的成熟社会中显得尤为重要。而且,现在与过去不同,世界变化的周期正在不断缩短,这意味着对艺术创作方面提出了巨大的变革要求。因为要适应时代的变迁,必然需要不断地推出作品,这就使得提升每个作品的质量变得困难。当质量提高,接近完美时,时代可能已经进入了下一个周期,必须开始着手下一个作品了。
(注 1) 逆反者(あまのじゃく):这里指的是那些故意逆反或否定的事物。
(注 2) 包容性(ほうせつ):具有包容性质。
原文
いま私たちの多くは、社会など動かしようがないと考えているのではないでしょうか。
それこそが所与の条件として、どのように行動すればいいかの判断基準を決めているのです。言い換えれば私たちは、「この社会は動かしようがないのだから、それを現実として受け入れるしかない」と思い込み、その範囲内で実行可能な行為しか考えなくなってしまうのです。ここに①大きな誤りがあります。
たしかにこの社会は動かし難い。それは事実です。しかし、そのことと、この社会がいかにあるべきかは、まったく別のことです。にもかかわらず、目の前の現実に依拠して、私たちの行為の正しさやよさが決められてしまう。これでは、現実に不正義が行われていても、それを問うことはできません。なぜなら、そのような現実を前提にして、正しい行為とは何かのルール設定がなされているからです。目の前の現実が正義にかなっていない場合、そこでの行為の正しさやよさを問うことはできないと私は考えていますが、ともすると②私たちは、その現実の範囲内での「適切な」行為を「正しい」行為であると考えてしまいがちです。たしかに、②その現実が動かしがたく、そのなかで生きていかなければならなければなりませんとすれば、そこにおいて最も適切な行為とは何かを探究することには意味がありますし、その探究によって最も適切とされる行為を選択すべきでしょう。
しかしながら、その現実のほうに問題があるとすれば、そこで最も適切とされた行為は「適切」であるにしても、「正しい」行為ではないはずです。
(注 1)所与の: 与えられた (注 2)~に依拠する: ~に基づく (注 3)ともすると: ここでは、つい
译文
现在我们中的许多人是不是认为社会是无法改变的呢?
这正是作为既定条件,决定了我们应该如何行动的判断标准。换句话说,我们内心认为“这个社会是无法改变的,所以我们只能接受它作为现实”,并且只考虑在这一范围内可行的行为。这里存在一个①巨大的错误。
确实,这个社会是难以改变的。这是事实。然而,这与这个社会应该如何存在是完全不同的两件事。尽管如此,我们还是基于眼前的现实来决定我们行为的正确与否和优劣。这样一来,如果现实中存在不公正,我们也无法质疑它。因为这样的现实是前提,关于什么是正确行为的规则已经被设定。如果眼前的现实不符合正义,我们就无法质疑那里的行为是否正确或良好。我认为,尽管②我们可能会倾向于认为,在那个现实范围内被认为是“适当”的行为就是“正确”的行为。 当然,如果那个现实难以改变,我们必须在其中生存下去,那么探究在那种情况下什么是最佳的行为是有意义的,我们也应该选择那些被认为是最合适的行动。
然而,如果那个现实本身存在问题,那么在那里被认为是最合适的行为,即使它是“适当”的,也不应该是“正确”的行为。
原文
互いに視線を向けるという場面では、サルと人間には大きな違いがある。サルにとって相手をじっと見つめるのは軽い威嚇になり、強いサルの特権である。弱いサルは、見つめられたら決して見返してはいけない。挑戦したとみなされて攻撃を受ける羽目になるからだ。強いサルの視線を避けて横や下に向くか、尻を向けて笑ったような表情をすればいい。強いサルは自分の優位性を確認できれば、それ以上威嚇(いかく)することはない。ただ、自分が強いサルの関心を引きそうな食物に手をかけていたら、すくさまその場を離れたほうがいいだろう。競合する場面では、弱いサルが強いサルに譲るように誰もが期待しているからだ。それがサル社会のルールである。
人間ではサルとは違ったことが起こる。時折「眼(注 1)をつけただろう」とすごまれることがあるが、見つめるという行為はふつう威嚇にはつながらない。むしろ、相手に積極的な関心を向けたり、許容や忠告、愛の表現であったりする。視線の向け方にも作法があり、目をかっと見開いたり、細めたり、丸くしたり、四角にしたり、横目や流し目、上目遣いや見下すなど、多種多様である。その作法は文化によっても、性別や年齢、身分や服装によっても違ってくる。それは人間にとって、顔と顔を合わせ、視線を交わすことが重要なコミュニケーションであるからだ。 実際、言葉が発達した私たちの社会でも、重要なことは直接会って決めることが多いし、面接は人物を確かめる手段として重用されている。(中略)
ところが、現代の情報機器はこの視線の作法をあまり使わなくてもすむ社会をつくってしまった。人々は毎日インターネットやメールをのぞくために多くの時間を使っている。家族や親しい仲間とじっくり顔を合わせて、対話や協同作業を楽しむ時間を失いつつある。
その結果、多様な視線の作法を忘れ、他人と視線を合わせることが億劫となっているのではないか。だが、言葉は視線のコミュニケーションを代替できない。言葉は意味を、視線は感情を伝える。むしろ意味があいまいであるからこそ視線は暖かくも冷たくもなりうるし、そこで受けた印象を後で変えることもできるのである。
言葉は視覚で得た映像や画像を意味として切り取る。そして文字はその言葉を化石化する装置である。それが持ち運び可能な効率的な手段だからこそ、人間は世界を言葉や文字で塗り替えた。だがそのおかげで、私たちは豊かな心を育んできた視線による対面の世界を忘れようとしている。それは皮肉にもサルのような視線を合わせない、優劣社会に移行することにつながるのではないか、と私は不安に思っている。
(注 1)眼(がん)をつける: 相手の顔をにらむ
(注 2)すごむ: 脅すような態度をとる
译文
在相互注视的场合,猴子和人类之间存在很大的差异。对于猴子来说,凝视对方是一种轻微的威胁,是强大猴子的特权。弱小的猴子如果被凝视,绝不能回望。否则会被认为是挑战,可能会遭受攻击。弱小的猴子应该避开强大猴子的目光,转向旁边或下方,或者露出屁股做出类似笑的表情。只要强大猴子确认了自己的优势地位,就不会进一步威胁。但是,如果弱小猴子触及了强大猴子感兴趣的食物,最好立即离开那个地方。在竞争场合,弱小猴子被期望让步给强大猴子,这是猴子社会的规则。
在人类中,情况则不同。有时人们会说“盯着看呢”,但通常凝视的行为并不会导致威胁。相反,它可能表示对对方的积极关注,或者是宽容、忠告、爱的表现。视线的投向也有一定的礼仪,可以睁大眼睛、眯起眼睛、圆睁、方睁、斜视、侧目、上目线或俯视等,多种多样。这些礼仪因文化、性别、年龄、身份和服装的不同而异。这是因为对于人类来说,面对面交流视线是重要的沟通方式。
实际上,即使在语言发达的我们的社会中,重要的事情往往还是通过直接见面来决定,面试作为一种确认人物的方式被广泛使用。(中略)
然而,现代的信息设备创造了一个即使不使用视线礼仪也能生存的社会。人们每天花费大量时间浏览互联网和电子邮件。与家人和亲密的朋友深入交谈、享受协作的乐趣的时间正在逐渐减少。
结果,我们可能忘记了多样的视线礼仪,与他人对视变得令人厌烦。但是,语言无法替代视线的沟通。语言传达意义,视线传达感情。正因为意义含糊,视线既可以温暖也可以冷漠,也可以在之后改变在那里留下的印象。
语言是将视觉获得的影像和图片作为意义来切割。文字则是将这些语言固定下来的装置。正因为它们是便携且高效的工具,人类才用语言和文字重新描绘了世界。但这也导致我们忘记了通过视线进行面对面交流的丰富世界。讽刺的是,我们似乎正走向一个像猴子一样不进行视线交流、等级分明的社会,这让我感到不安。
原文
このところ、「〇〇倫理」という言葉をしばしば耳にする。マスコミでは、政治倫理、企業倫理、メディア倫理などといった言葉はおなじみのものだろう。そうした言葉は、何か問題が起きたときの掛け声のようなもので、空疎な常套句にすぎないのかもしれない。だが、はっきりと、倫理といったものが必要だという気分が漂っているのは事実であるように思う。
そうした雰囲気を受けて、倫理学では、応用倫理学と呼ばれる分野が急速に成長し、さまざまな倫理が提唱されつつある。たとえば、生命倫理、環境倫理、ビジネス倫理に始まって、情報倫理、工学倫理、スポーツ倫理、さらには、遺伝子倫理、脳神経倫理、ナノ倫理、ロボット倫理といった具合に、言葉を見ただけでは、内容がにわかには想像しにくいものまで登場している。「なんでも倫理症候群」とでもいいたくなるほど、「〇〇倫理」が大はやりなのだ。どうやら、現代は「倫理的な時代」らしいのである。
こうした倫理ばやりは、わたしのように哲学や倫理学を専攻する人間にとって、必ずしも喜ばしい事態であるわけではない。それは、倫理が空気のようなものだからだ。
普段、わたしたちが生活しているときに、空気を吸っていることをとりたてて意識などしない。生きていく上で空気が必要なことはわかってはいても、希薄になって、息苦しくならない限り、空気は意識されたりはしない。 倫理には、それと似たところがある。倫理がさかんに語られるのは、社会がそれまで通りにはいかず、息苦しくなっているような時代である。少なくとも歴史を振り返ってみると、「倫理的な時代」はいずれも価値観の大きな変動期にあたっていた。つまり、それまで当然だと思っていた考え方や生き方が大きく摇らいで、どう考え、どう生きたらよいのかわからないようなときに、倫理は求められてきたのだ。わたしたちが生きている現代は、そうした時代である可能性が高い。
その場合、一番の問題は、変動期の人間には、先が容易に見通せないことである。現在は、過去の歴史的な事例とは違って、どのような結果が待ち受けているか、あらかじめ知ることはできない。わたしたちは、そうした不確かさのなかで、現在を生きていかざるを得ない。
もちろん、こうした事態を、わたしたちが新たな未来を切り開くのだと、積極的に言ってみることはできるかもしれない。しかし、そうした積極的な態度や発言が簡単にはできないのが、「倫理的な時代」なのだ。とりあえずできるのは、なにが起きつつあるのか、どのような問題が出てきているのかを知り、考えていくことである。それが、現在を生きるということであるはずだ。
(注)空疎(くうそ): 中身のない、実質を伴わない。
(注)常套句(じょうとうく): いつも使われる、型にはまった表現。
译文
最近,我们经常听到“〇〇伦理”这样的词汇。在媒体上,政治伦理、企业伦理、媒体伦理等词汇已经变得耳熟能详。这些词汇在出现问题时可能只是作为口号,或许只是空洞的套话。然而,显然,人们普遍感到需要某种伦理,这似乎是事实。
在这种氛围的影响下,伦理学领域中被称为应用伦理学的分支迅速成长,各种伦理观念被提出。例如,从生命伦理、环境伦理、商业伦理开始,还有信息伦理、工程伦理、体育伦理,甚至遗传伦理、神经伦理、纳米伦理、机器人伦理等等。仅从这些词汇来看,有些内容可能难以立即想象。似乎到了“伦理狂热症候群”的程度,“〇〇伦理”变得非常流行。看来,我们正生活在一个“伦理的时代”。
然而,对于像我这样专攻哲学和伦理学的人来说,这种伦理热潮并不一定是一件令人高兴的事。这是因为伦理就像空气一样。
通常,我们在日常生活中呼吸空气时,并不会特别意识到这一点。虽然我们知道空气对生存是必需的,但除非空气变得稀薄到令人窒息的程度,否则我们不会意识到空气的存在。
伦理也有类似之处。当伦理被频繁讨论时,往往是在社会无法像往常一样运作,人们感到窒息的时代。至少回顾历史,所谓的“伦理时代”往往出现在价值观发生巨大变动的时期。也就是说,在那些人们习以为常的思考方式和生活方式受到巨大冲击,人们不知道该如何思考和生活的时候,伦理被人们所寻求。我们所生活的现代,很可能就是这样一个时代。 在这种情况下,最大的问题在于,处于变革时期的人们难以预见未来。与历史上的事例不同,我们无法预先知道等待我们的是什么样的结果。我们必须在这样的不确定性中继续生活。
当然,我们可以积极地说,这样的情况是我们开辟新未来的时刻。然而,在“伦理时代”,这样的积极态度和言论并不容易做到。我们至少能够做到的是了解正在发生什么,思考出现了哪些问题。这应该是我们生活在这个时代的方式。
原文
A
会社の仕事は学校と違い、知識だけでは役に立たず、実際の判断や行動が問題である。だから何ごとも、実際に経験しない限り、新しい能力は身につかない。今持っている能力というのはすべて、過去において未経験の仕事に取り組んだ結果身についたものだ。
したがって、部下や後輩に対しては常に、今までの仕事をだいたいこなせる(注)ようになったなと思ったら、すかさず彼にとっては未経験の仕事を与え、それをやり遂げられるようバックアップをする必要がある。 (中略)
そして何とか問題を克服したら、必ずほめる。ほめることによって本人も“おれもやれるな”と自信がつき、次はこちらから未経験の仕事を与えなくても、自分で新しい問題を買って出るようになる。そして全力投球でそれと対決し、克服してさらに自信の持てる範囲を広げ、さらに未経験の課題に取り組むという成長循環に入っていく。
B
企業で人材を育てるには、上司が部下の行動のスタイルを理解して指導を行うことが重要だ。これまでは、まずはとにかく経験させ、その過程で試行錯誤しながら進歩していくのがよいと考えられてきたが、最近では事前に情報をインプットした上で経験をしたいというタイプが多い。このようなタイプには、未経験の仕事をいきなり与えるのではなく、十分に情報を与え全体像をつかませた上で、新しい仕事に取り組ませることが効果的だ。
最近の部下は現状維持でいいと考える人が多いという批判が聞かれるが、彼らの行動のスタイルに合わせて経験を積ませていくことによって視野が広がり、自ら新しいことに取り組もうという姿勢を持つようになるだろう。
(注)こなせる: 処理する
译文
A
公司的工作与学校不同,仅凭知识是不够的,实际的判断和行动才是问题所在。因此,除非亲自经历,否则无法获得新的能力。现在所拥有的能力,都是过去在处理未经历过的工作中逐渐获得的。
因此,对于部下或后辈,一旦发现他们已经能够大致处理好以往的工作,就应该立刻给予他们新的、未经历过的工作,并在他们能够完成的过程中提供支持。 (中略)
当他们设法克服了问题后,一定要表扬他们。通过表扬,本人也会获得“我也能行”的自信,接下来即使不给予新的未经历过的工作,他们也会主动寻求新的挑战。他们会全力以赴地面对挑战,克服困难,进一步扩大自信的范围,并且愿意尝试更多未经历过的新任务,从而进入一个成长的循环。
B
在企业中培养人才时,上司理解并指导部下的行为风格是非常重要的。过去,人们认为首先应该尽可能多地让他们积累经验,在这个过程中通过尝试和错误来取得进步。但是,最近越来越多的人希望在获得充分信息的基础上进行经验积累。对于这种类型的人,不应该立即给予他们未经历过的工作,而应该先提供足够的信息,让他们掌握整体情况,然后再让他们着手新的工作,这样做效果会更好。
最近有人批评说,现在的部下往往满足于维持现状,但通过配合他们的行为风格让他们积累经验,他们的视野将会拓宽,并且会逐渐形成主动寻求新挑战的态度。
本文作者:yowayimono
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