原文
テレビ番組は、その番組内容のすべてが視聴者に伝わるよう、わかりやすく作られるが、一方で「わかりやすいだけの番組づくり」になってしまう危険性がある。メッセージがシンプルな番組のほうが視聴率を取りやすい、などと言われる傾向があるなかで、「わかりやすく」することによってかえって、事象や事実の深さ、複雑さ、多面性、つまり事実の豊かさを、そぎ落としてしまう危険性があるのだ。とりわけ報道番組では、このことは致命的な危うさになる。
译文
电视节目虽然被制作得易于观众理解,但另一方面,存在仅制作“易于理解的节目”的危险。在有趋势认为简洁的信息更容易获得高收视率的情况下,过于“易于理解”反而可能削减事件和事实的深度、复杂性、多面性,即事实的丰富性。特别是在新闻节目中,这种做法可能带来致命的风险。
原文
人材育成という場面では、相手に「失敗する権利」をもっと与えてもいいような気がします。それはなによりも「失敗する権利」を与えることが、相手の自発性を生み出すことに結びつくからです。 逆にいえば「失敗する権利」がないところでは、行動がどうしても「しなければならない」の連続になり、自発性よりも義務感を助長してしまいます。 自分はどのくらい相手に「失敗する権利」を与えているのか、一度立ち止まって考える価値はあるでしょう。
译文
在人才培养的场合,给予对方“失败的权利”可能是个好主意。因为给予“失败的权利”能够促进对方的自发性。 相反,如果没有“失败的权利”,行动就会变成不断的“必须做”,反而会增强义务感。 我们应该停下来思考一下,自己在多大程度上给予了对方“失败的权利”。
原文
直感力は即座に作用する場合もあれば、逆に時間を置いて、ある日突然作用する場合もあります。言い方を変えれば、気まぐれな存在とも言えます。
しかし、その気まぐれとも思える直感力による「発見や気づき」は、考え続けたり、悩み続けるといった努力と強い指向性(注)の結果として生まれてくる「閃き」であって、探求心のないところに発生することはありません。つまり、強い探求心と問題意識を持ち続けた結果として、あとから直感が働いてくるわけです。
(注)指向性:ここでは、特定の方向に向かう意識
译文
直觉力有时会立即发挥作用,有时则需要时间,某一天突然发挥作用。换句话说,它也可以被视为一种变幻莫测的存在。
然而,这种看似变幻莫测的直觉所带来的“发现或察觉”是通过持续思考或不断烦恼等努力以及强烈的指向性(注)而产生的“灵感”,它不会在没有探索欲望的地方发生。也就是说,只有持续保持强烈的探索心和问题意识,之后直觉才会发挥作用。
(注) 指向性:这里指朝特定方向发展的意识
原文
巷によくある料理本について、私がかれがれ不満に思っていたことがある。
それは、たとえば炒飯ならば、一、フライパンを熱する。二、大さじ二杯のサラダ油を入れる。三、溶き卵を入れる。……といった感じに書かれていることが多くて、なぜそうするのかが書かれていないのだ。なぜフライパンを熱してから油を入れるのか。なぜ溶き卵をこのタイミングで入れるのか。私は、そういうことが知りたい。型というかマニュアルが欲しいのではなく、その型が生み出された基本原理が知りたいのである。
基本原理さえつかめれば、これは他にも広く応用が利くので、後々役立つ度合いが大きい。個別の型だけを学んでも、それは他のことに応用できるのかできないのか判断がつかないし、応用したとしても、その範囲はかなり限定されてしまう。そして何より、ただ誰かの作った型に理由もわからず無自覚なまま従っていること自体が、私にはとても気持ちが悪いのだ。
(中略) 型というものは、それを考案した人自身に最も必要だったものであって、必ずしもすべての人に有益とは限らない。真に学ぶとは、誰かの型をコピーすることではなくそこからエッセンスを抽出して、自分に合ったやり方を生み出すことではないだろうか。
マニュアルを使うことに慣らされた現代だからこそ、白紙の状態から必要なやり方をその都度見つけ出せるような人間を育てていく必要があるのではないかと、私はいろんな場面で思うのである。
译文
关于市面上常见的烹饪书籍,我有一个一直感到不满的地方。
例如,如果是炒饭,通常会这样写:一、加热平底锅。二、加入两大勺色拉油。三、倒入打散的鸡蛋……但往往没有解释为什么要这样做。为什么要在加热平底锅后再加油?为什么要在这种时机加入打散的鸡蛋?我想要知道的是这些基本原理。
如果掌握了基本原理,就可以广泛应用于其他方面,日后会非常有用。仅仅学习个别模式,无法判断是否可以应用于其他事情,即使应用了,其范围也会相当有限。而且,盲目地遵循别人制定的模式,而不明白其原因,对我来说是非常不舒服的。 (中略)
模式是设计它的人最需要的东西,但并不一定对所有人都有益。真正的学习,难道不是从别人的模式中提取精华,创造出适合自己的方法吗?
正因为现代人习惯了使用说明书,所以我们更需要培养那些能够从零开始,根据情况不断找到所需方法的人。
原文
これまでずいぶんたくさんアニメーションを作ってきましたが、しかしなかなか未だに巧くアニメーションを作るのは難しく、大変です。いつもどう作ったらよいのか、作り始めてからもとまどってしまうのです。しかし少しずつ形になってくると、ふつふつと楽しくなってくるのです。そしてできあがってきたイメージと自分の頭の中のイメージとの、一致とズレを近づけたり、遠ざけたりするために、たくさんの作業を積み重ねて、最後には、どこかであきらめを付けて、終わりにします。
ただその時には終わったと思っても、少し時間を置いてみると、もう少しこうすればよかった、ああすればよかったと、後悔ばかりが浮かんできて、自分のアニメーションの上映会に立ち会う時は、いたたまれない思いがします。アニメーションに限らず、クリエイターは多かれ少なかれ、ただ楽しいばかりではなくこんな思いをしながら、次こそは自分のベストを形にしようと、日々まるで「修行」のように物作りに追われていくのではないでしょうか。いつかは、この魔物から逃れて、心安らかな日が訪れるのを夢想しながら。 (中略)
現実世界には、辛いことや思いどおりにならないこともたくさんありますが、創作活動の中、精神の世界で自由に羽を伸ばせる時、そこには他のいろいろな楽しい娯楽では味わえない深い喜びがあり、それがこの魔物から逃れられない理由の一つです。
そして、言葉にはできない価値観をうまく作品として整えられた時、それは人の反応や評価を超えた、絶対的な充実感を与えてくれるものと信じています。
(注|)ふつふつと:心の中からわいてくるように
(注2)クリエイター:創造的な仕事に携わっている人
译文
迄今为止,我已经制作了许多动画,但制作动画仍然很难,很费劲。我总是不知道如何开始,开始后也会感到迷茫。但是,当动画逐渐成形时,我会感到越来越有趣。为了使完成的图像与我心中的图像尽可能一致,我需要进行大量的工作,最终不得不在某个地方做出妥协,结束制作。
然而,即使在那时我认为已经完成了,但过一段时间后,我总是会想,如果这样做就好了,如果那样做就好了,这种后悔让我在自己的动画上映会上感到难以忍受。不仅仅是动画制作,我想创作者或多或少都会经历这样的过程,不仅仅是快乐,而是带着这样的感受,每天像“修行”一样追求创作。我梦想着有一天能够逃离这个魔物,迎来心灵安宁的日子。 (中略)
现实世界中有许多痛苦和不如意的事情,但在创作活动中,精神世界里可以自由地伸展翅膀,那里有一种其他各种娱乐无法比拟的深深喜悦,这也是我们无法逃离这个魔物的原因之一。
当我们能够将难以言表的价值观巧妙地融入作品时,我相信它能给予人们超越他人反应和评价的绝对满足感。
原文
前頭葉というものがある。
人間の脳の一部に、この前頭葉は、意欲や感情のコントロール、思考や想像のスイッチ機能を果たしていると考えられている。そして、長期記憶を保持する役割も担っている。しかしここが、脳の中で一番早く老化が始まるのだという。(中略)
前頭葉の老化に拍車をかけると懸念されているものがある。デジタルだ。(注1)
人間がパソコンやスマートフォン(注2)、インターネットなどに頼り過ぎるようになったことで、自分の頭の中に情報や知識を蓄積したり、繰り返し引き出す機会が減った。それが前頭葉の老化をいっそう促しているという指摘がある。
デジタルの中に蓄えられる莫大な情報を、人間に新たに与えられた「外部脳」と解釈し、これが人間の脳の効率化につながるのだという見解が増えた。外部脳を持てば、自分の脳を記憶装置にせず、思考の場として徹底できる、そう考える専門家も少なくない。
しかし、外部脳に頼ることの代償が前頭葉の老化促進だとすれば、この考えに対しては慎重に対峙(注3)しなければならない。
自分の脳の中に情報や知識を記憶し、それを駆使してこそ生まれる連想や判断というものがある。これを頻繁に繰り返すことで、人間の脳の潜在力が引き出され、老化も防ぐことができる。外部脳ができたことを謳歌する前に、自分の脳を鍛え、活用することの重要性を再認識する必要がありそうだ。闇雲にデジタルに脳の役目を託すことは、危険を伴うと言わざるを得ない。外部脳に人間の脳が持つ元来の力を奪われかねないのだから。
(注1)デジタル:ここでは、デジタル機器
(注2)スマートフォン:パソコンの機能もある携帯電話
(注3)対峙する:向き合う
译文
前额叶是人脑的一部分。
它被认为负责控制意志和情感、切换思考和想象的功能。同时,它还承担着保持长期记忆的作用。但是,据认为这是大脑中最早开始老化的部分。(中略)
担心加速前额叶老化的是数字化。(注1)
由于人们过度依赖电脑、智能手机(注2)和互联网,减少了在自己头脑中积累信息和知识、反复提取的机会,这被认为进一步促进了前额叶的衰老。
有人解释说,数字化中储存的海量信息是人类新获得的“外部大脑”,这有助于提高人脑的效率。有专家认为,拥有外部大脑,可以使我们的大脑不再作为记忆装置,而是彻底作为思考的场所。
然而,如果我们依赖外部大脑而导致前额叶老化加速,我们必须对这种想法持谨慎态度。
只有在自己的大脑中记忆信息和知识,并利用它们才能产生联想和判断。通过频繁地重复这个过程,可以激发人脑的潜能,防止老化。在庆祝外部大脑的诞生之前,我们需要重新认识到锻炼和利用自己大脑的重要性。盲目地将大脑的任务托付给数字化,无疑伴随着危险。外部大脑可能会夺走人脑原本的力量。
原文
大学2回生の頃だったか、フランス語の文章を講読する授業に出席していたところ、なにかの折に先生が、「分かるものを読むのは読書ではなく、分からないものを読むのが読書です」と仰った。(中略)先生の言葉を聞いて当時の私は、自分がそれまでに知った限られた知識を確認するだけの本を読むのではだめて、自分の知らない考え方や感じ方にふれることによって、自分の偏狭な物の見方を問い直さなければならない、と先生は言いたかったのだろうと思った。先生の言葉に私は感銘し、その時以来、当時の私にとってとりわけ難解であったフランス現代思想の哲学者や思想家の本を、理解できるようになるまでとことん読むように心がけた。
そんな読書を続けるうちに、はたして、難解な本を理解するだけの読書でいいのだろうかと自問するようになった。というのも、理解するということが、そもそも良いことかと問いかける哲学者や思想家の本を読んだからだ。理解するとは、人であれ物であれ、その人やその物を理にかなった仕方で知る良い方法だとたいていは言われる。しかしながら、理にかなった仕方で、その人の人格なり、その物の本質なりを知ることには、暴力的なところはなにもないのだろうか。理解するということは、唯一存在しているこの人やこの物を、その単独な在り方ではなく、ほかの入やほかの物と共通する一般的な在り方で捉えることだ。私たちがなにかを知ろうとする際に頼りにする概念や観念は、様々な在り方をする諸々の存在に当てはまるから役に立つ。概念や観念は私たちが知ろうとする対象の在り方に力を加えるわけではないのだから、知る私たちと知られる対象の間に立つ中立的な光のようなものだと見なされている。的確な概念や観念をとおして諸々の存在を理解するのは、正しい学問だとされてきた。しかしながら、たとえそれが正しくても、この人やこの物が持っている単独のなにかは、理解では捉えられないまま、知それ自体のなかで忘却されてしまいがちだ。なにかを理解できるということは、たしかに人間の優れた能力である。が、それは武器であり、この至高の武器の前では、およそ存在するものはなんであれ、ほとんど抵抗することができないということを心得ていなければならなない。
译文
在我大学二年级的时候,我参加了一门用法语阅读文章的课程。有一次,老师说:“阅读理解的东西不是阅读,阅读不理解的东西才是阅读。”听到老师的话,我意识到,阅读不仅仅是确认自己已知的有限知识,而是要通过接触自己不知道的想法和感受,来质疑自己狭隘的世界观。老师的话让我深受感动,从那时起,我决心要彻底阅读那些对我来说特别难懂的法国现代思想的哲学家和思想家的书籍,直到我能理解为止。
随着这种阅读的持续,我开始质疑,仅仅理解难懂的书籍是否足够。因为我读了一些哲学家和思想家的书籍,他们质疑理解本身是否是一件好事。通常,理解被认为是了解人或物的一种好方法,但通过理性的方法来理解一个人的人格或一个物的本质,是否本身就带有暴力性呢?理解意味着将这个独一无二的人或物,以一种与他人或他物共通的普遍方式来把握。我们用来理解的那些概念和观念,之所以有用,是因为它们适用于各种存在。概念和观念并不是给我们要了解的对象增加力量,而是被视为我们和被了解对象之间的一种中立的光。通过准确的概念和观念来理解各种存在,被认为是正确的学问。然而,即使这种理解是正确的,这个独一无二的人或物所拥有的某些东西,可能在理解的过程中被忘却,消失在知识本身之中。能够理解某事确实是人类的一种卓越能力,但它也是一种武器,在这种至高无上的武器面前,几乎所有存在的东西几乎都无法抵抗。
原文
A
ビジネスで相手をうまく説得したいとは誰もが思うことだろう。私が最も意識しているのは、相手の性格や価値観、知的水準などに応じた説明のしかたをすることだ。具体的で明快な例を求める人もいるし、データに基づいた緻密な説明を好む人もいる。さまざまなタイプに合わせて対応することによって、説得力を高められるように努めている。 ただ、どのような相手でも、まずは話を聞いてもらえなければ意味がない。そのためには、話し方や服装などの最低限のマナーは身につけておかなければならない。中身のある話ができればいいとこれらを軽視する人もいるが、初対面で悪い印象を持たれてしまうと、そもそも話を聞こうとは思ってもらえず大きなマイナスになってしまいがちだ。もちろん相手の印象を気にしすぎるのは問題だが、いい印象を持ってもらうことはプラスに働くことも多いと思う。
B
説得力を高めるための第一歩は、「送り手」としての自分自身の信頼度を高めること。「この人は信用できそう」といった印象を与えることです。多くのビジネスパーソンが服装や言葉遣いを気にするのも、信頼できる印象を与えたいからに他なりません。何よりも重要なのは、説得内容に関連した知識や情報を十分に吸収し、専門性を高めておくことです。(中略) 仕事に関連する情報というのは、日常生活の至る場面に転がっています。街を歩いていても、ショッピングモールや行楽地に出かけても、人々の行動パターンやライフスタイル(注)を知るヒントが見つかります。専門的知識や情報を生活に密着し大規模で提示することができれば、より説得力が増すはずです。説得力のある人には日頃から研究熱心な人が多いのもそのためです。 好印象も説得力につながります。人の話に耳を傾け、言葉と心のキャッチボールができる人は、間違いなく好印象を与えます。 (注)ライフスタイル:生活様式
译文
A
在商业中,我们都希望有效地说服对方。我最注重的是根据对方的性格、价值观和智力水平来调整我的解释方式。有些人喜欢具体的例子,而有些人则偏好基于数据的详细解释。通过适应不同类型的人,我努力提高说服力。 然而,无论对方是谁,首先必须让他们愿意听你说话。因此,掌握基本的礼仪,如说话方式和着装,是必不可少的。有些人认为只要内容充实,就可以忽视这些细节,但如果一开始就给人留下不好的印象,他们可能根本不愿意听你说话,这将是一个很大的劣势。当然,过度关注对方的印象也是问题,但给人留下好印象通常也会带来积极的效果。
B
提高说服力的第一步是提高作为“传递者”的自己的可信度。给人留下“这个人值得信赖”的印象非常重要。许多商业人士注重着装和言辞,也是为了给人留下可信赖的印象。最重要的是,充分吸收与说服内容相关的知识和信息,提高专业性。(中略) 与工作相关的信息在日常生活的各个场合都能找到。无论是走在街上,还是去购物中心或旅游地,都能发现人们的行为模式和生活方式(注)的线索。如果能够将专业知识和信息与生活紧密联系并大规模展示,说服力就会增强。有说服力的人往往平时就非常注重研究。 好印象也能增强说服力。倾听对方的话,并能与之进行言语和心灵上的互动的人,无疑会给人留下好印象。 (注)生活方式:生活样式
原文
植物は美しい花を咲かせ、虫を誘った。鳥は飛ぶために翼を生やした。しかし、生物は、自ら求めてそのような性質を得たわけではない。生命にとって新しい変化は偶然によってしか生まれない。
DNAが複製され、親から子に受け渡されるとき、ごく稀に、ほんのわずかな誤植(注1)が発生する。もちろん誤植はランダム(注2)におきる。ささいな誤植は新たな変化をもたらす。その変化自体には目的も意図も方向性もない。そこから何かを選びとるのは自然環境である。自然環境に適した変化は選択され、子孫を残す。環境に不適な変化は子孫を残せず、淘汰される。
ところがもし本来ならあっさり淘汰されてしまうような変化であっても、それを選びとり、守り、育むような「選択者」が自然以外に存在すれば、その変化は生きのびることができる。そんなことが近年、実はたくさん、あちこちで起こっている。近年、といってもそれは、人間がこの世界に出現して以来のこと。
たとえば鳥。鳥は卵を産むと巣に籠って暖める性質を持つ。数週間それに専心(注4)する。しかし、もし何らかの突然変異によって鳥の習性が変化し、卵を産んでも暖めることを放棄してしまった。そんな変化は、子孫を残すのに圧倒的に不利だから、たちまちそんな鳥は淘汰されるはず。
ところが人間はその鳥の卵を鳥に代わって暖め子孫を増やしてやることにした。なぜか。鳥は卵を暖めるこどを放棄したかわりに、またすぐに次の卵を作りはじめる性質を持っていたから。こうして現在、私たち人間は、每日排卵(注5)し、每日のように卵を産みつづけて平然としている鳥、すなわち、一年に300個以上も卵を産み続けるニワトリ、ホワイトレグホン(注6)を選びとった。
たとえばカイコ(注7)。カイコはもともとクワコという蛾の一種だった。人間が常時、餌を供給して人工的な環境を与えた。すると幼虫は自分て餌を探索するのをサボるようになった。その分の余力(注8)をもっと別なこと、つまり絹糸を作り出す能力に振り向けるような種が選別された。かくして自分ではほとんど動けず、必要以上に大きく厚手の繭(注9)を作りだし、そこから出ることも飛ぶこともできないような昆虫が作り出された。カイコは人間がいないと生きていけない。 (中略)
人間がその進化のプロセスに介入し、自然になりかわって選択者としてふるまい、作りかえ、新たに生み出した生命。
その生命たちはもはや人間なしでは生きていけない。一方、人間もまたそんな生命に助けられ、あるいは支えられて生きている。これは人間と人間が作り出した生命との新たな共生関係とも呼べる。
人間が登場して以来、進化の歴史は新しい局面を迎えた。人が作りかえた生命。それに対して人間はしっかりと責任を取らなければならない。
译文
植物绽放美丽的花朵来吸引昆虫。鸟类为了飞行而长出了翅膀。然而,生物并不是自己追求而获得这些特性的。对于生命来说,新的变化只能通过偶然产生。
当DNA复制并从父母传递给子女时,极少数情况下会发生微小的错误(注1)。当然,这些错误是随机发生的(注2)。这些微小的错误会带来新的变化。这些变化本身没有目的、意图或方向性。自然环境会选择其中一些变化。适应自然环境的变化会被选择并留下后代。不适应环境的变化则无法留下后代,被淘汰。
然而,如果本来会被轻易淘汰的变化被自然以外的“选择者”选择、保护和培养,那么这种变化就能存活下来。近年来,实际上这样的事情在很多地方发生了很多次。虽然说是近年来,但这是自从人类出现在这个世界以来的事情。 例如鸟类。鸟类产卵后会在巢中专心孵化。持续数周。但是,如果由于某种突然的变异,鸟类的习性发生变化,不再孵化卵,那么这种变化在留下后代方面是极其不利的,因此这种鸟类很快就会被淘汰。
然而,人类决定代替鸟类孵化卵,帮助它们增加后代。为什么呢?因为这种鸟类放弃了孵化卵的行为,转而很快开始产下下一个卵。因此,我们现在有了每天排卵、每天产卵的鸟类,即一年能产下300多个卵的鸡,也就是白洛克鸡(注6)。
例如家蚕(注7)。家蚕原本是蛾的一种,名为桑蚕。人类持续提供食物并给予人工环境。结果,幼虫不再自己寻找食物,而是将这部分能量用于其他事情,即生产丝线的能力。因此,人类创造出了几乎不能动、产下过于大而厚的茧(注9)、无法从中出来或飞翔的昆虫。家蚕没有人类就无法生存。
(中略) 人类介入了进化的过程,代替自然成为选择者,改变并创造新的生命。
这些生命已经无法在没有人类的情况下生存。另一方面,人类也依赖这些生命,或者被它们支持着生存。这可以被称为人类与人类创造的生命之间新的共生关系。
自从人类出现以来,进化的历程迎来了新的局面。人类改变了生命。对此,人类必须承担起责任。
本文作者:yowayimono
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