之前N2根本没做过几篇阅读,考试拿了46分让我很惊喜,但是N1一定要充足准备,我发现很久没学日语,有些句子明明能看懂他就是那么简单,但是还是会很迟钝甚至理解错,我把这一切归咎于我看得太少了,也确实是这样,所以我会每天选一些文章和翻译精读,有真题也有模拟题
かつて私たちを規制したのは、国家思想とかイエの家父長制度というような、はっきりと目にみえる権力とか規制やモラルであったが、今私たちを支配しているのは、そのようなはっきりと目に見えるものではない。個人主義という美名の裏で、情報という「見えざる手」が大きな手を広げているのである。情報が電波に乗り、活字に現れ、それによって私たちは動かされている。そして、自分がどこまで動かされているのかすら、自分で確かめられないほどである。だとすると、現代ほど自分の主体性、価値観を築き上げるのに難しい時代はないのである。
曾经制约我们的,是像国家思想和家族的家长制度这样的、清晰可见的权力、规则和道德。但现在支配我们的,已不再是那些清晰可见的东西。在个人主义这个美名之下,信息这只“看不见的手”正在广泛地展开。信息借助电波传播,通过文字显现,我们因此被驱动。甚至我们被驱动到何种程度,自己都无法确切知晓。如此看来,没有哪个时代比现在更难于建立自己的主体性和价值观了。
今はどうか知りませんが、旧ソ連では、絵描きであることが尊ばれたそうです。ただし、体制的でないといけませんが……。ともかく「あの人は芸術家だから」とか「あの人はバレリーナだから配給より少しよけいに食べさせてやらないとかわいそうだ」ということがあったといいます。ニューヨークでも、アーティストのためのマンションというのがあります。職業はみんな平等なのに、アーティストと名のつく仕事についている人は優遇されて、安く住むところが用意されているのだそうです。
日本では、優遇どころか、たとえば義務教育の教科の中から、美術の時間は無くなるか、もしくは減らされています。国策として科学的発見を願う時代に、「美」などは贅沢なことのように思われ、直接コンピューターの教育を徹底すれば足りる、と考えられているようですが、私にはそう思えません。科学的にも、芸術的にも「美しいものを創造しよう」とする感性と努力が両輪となって、新しい境地を開くのです。
(安野光雅「絵のある人生」岩波書店)
(注1) 優遇する: ほかの人よりも良い待遇をする (注2) 主道な: すくには役に立たない
我不知道现在的情况如何,但在前苏联,画家这个职业是受到尊重的。但是,必须是符合体制的画家……。总之,据说有过这样的事情:“那个人是艺术家,所以应该多给一些食物”或者“那个人是芭蕾舞者,不给她比其他人稍微多一点的食物就太可怜了”。在纽约,也有为艺术家准备的公寓。尽管职业上人人平等,但那些从事被称为艺术家工作的人却得到了优待,有便宜的住所提供给他们。
在日本,情况却并非如此,甚至在义务教育的课程中,美术课的时间要么被取消,要么被减少。在国家政策倾向于科学发现的时代,“美”似乎被视为一种奢侈的事情,似乎认为只要彻底进行计算机教育就足够了。但我不这么认为。科学和艺术上,“创造美丽的事物”这种感性和不懈的努力是相辅相成的,它们共同开辟了新的境界。
(安野光雅《有画的人生》岩波书店)
(注1)优遇:给予比其他人更好的待遇。 (注2)主道な:基本上没有实际用途。
わたくしの目には、都市としての東京も大阪も大同小異誰けの感があるのだが、日々まあこんなものかと東京と大阪を往き来して暮らしていると、ときどき《小異》の部分であっと驚く発見をすることもある。 先日、東京のある雜誌がもっとも《大阪らしい》都市風景を多角的に撮るという企画を立て、どこがいいだるうと相談を受けたわたくしは、迷わず大阪湾岸に広がる工場群と港湾施設と海の風景をその一つに選んだ。(中略) ところが、東京の編集者やカメラマンの驚いたこと、驚いたこと。いわく、なぜこんな岸壁に一般市民が出られるのかというのだが、なぜ、と尋ねられてこちらが驚いた。出られるのが当たり前だとわたくしは思っていたし、現に釣りをしている人たちがいるのである。 しかし東京では、岸壁という形で海に近づけるのは、日之出栈橋か竹芝栈橋の水上バスやフェリーの発着場だけだという。 今度はわたくしの方が、しばし考え込むことになった。東京も、大阪と同じく長い海岸線を持ち、同じように港湾施設や倉庫、工場がひしめき、理立地も多い。そのすべてが埠頭や栈橋という形で岸壁を持っているが、そのどこにも出られないというのは、嘘か真か。 これはどうやら真の話らしい。海岸線がすべて企業の私有地ないし港湾局の管理地になっているのは大阪と同じだが、達いは閉じているか否かである。東京はすべての出入ロが閉じられていて、大阪はほとんど開いているのである。 (高村薫「半眼訥訥」文藝春秋)
在我看来,无论是作为都市的东京还是大阪,都大同小异,给人一种谁都可以的感觉。然而,当我每天往返于东京和大阪之间生活时,偶尔会在《小异》的部分有令人惊讶的发现。
前几天,东京的一本杂志策划了一个项目,要多角度拍摄最具有《大阪特色》的城市风景。当他们询问我哪里合适时,我毫不犹豫地选择了大阪湾沿岸展开的工厂群和港口设施以及海景。(中略)
然而,东京的编辑和摄影师们感到惊讶的是,为什么这样的海岸线普通市民可以进入。当他们问为什么时,我感到惊讶。我以为可以进入是理所当然的,而且实际上也有钓鱼的人在那里。
然而在东京,能够接近海岸线的只有日之出栈桥或竹芝栈桥的水上巴士和渡轮的出发到达点。
这让我陷入了沉思。东京和大阪一样,都有漫长的海岸线,同样拥有众多的港口设施、仓库和工厂,理应有很多可以接近的地方。但是,似乎所有的海岸线都变成了私人企业或港务局的管理地,无法进入,这似乎是假的。
这似乎是真实的情况。尽管海岸线都是企业的私有地或港务局的管理地,与大阪相同,但区别在于是否开放。东京所有的入口都关闭了,而大阪几乎所有的入口都是开放的。
(高村薰《半眼讷讷》文艺春秋)
(注1) 大同小: 细节上可能有差异,但大致相同。 (注2) 岸壁: 为了能让船只装卸货物等,建造在海岸边的墙壁。
いつの頃からか「おふくろの味」という言葉を、たぶん世の男性たちが作り、その郷愁にこたえてそういう店もでき、もの珍しさに女の私も幾度か足を運んでみると、何のことはない里芋とコンニャク、ひじきと油揚げの煮付け、ナッパのおひたしなどのことなのである。 要するにこれは昔のごく常識的な副菜進りであって、何も母親に限らず隣りのおばさんでもうちの下女でも手軽に作り、また町のおかず屋にでも並べられていたしるもので、今だってちょっと女房に頼めば家でもすぐ食べられる料理のことではないか。 ただ、見た目は同じであっても、私にいわせて質えば今のこれらの料理の素材は、郷愁のなかの昔の味とは似て非なるもの、というべく、第一野菜の味からして全く別物なのである。戦前はどこの家でも野菜をたくさん食べたし、需要とともに味の注文も多ければ、農家も美味しい野菜作りに情熱を込めたものだった。(中略) ところで、男性がおふくろの味に憧れる原因に、主婦の家事の手抜きと子供中心の偏愛が言われるが、私もその手抜き主婦の一人としていわせて頂くと、味覚というのは甚だ流動的かつ身勝手なものとはいえないだろうか。つまり生活全般、現代と密着している人間の口に合うものといえばやはり現代の味覚であって、今はもうないものだりともいえる昔の味ではないのである。 おふくろの味モードに付き合って、漂白された皮が固くなり味を失った里芋を、全国一の出汁の精を使って煮ころがしてみたところで味気なさを嘆みしめるばかり。
不知从何时起,“母亲的味道”这个词被世上的男人们创造出来,为了回应这种乡愁,也出现了这样的餐馆。偶尔出于好奇,我也去过几次,结果发现不过就是煮的山药和魔芋、裙带菜和油炸豆腐、以及腌制的纳豆等食物。
总之,这不过是过去非常普通的家常菜,不仅限于母亲,邻家的阿姨、家里的女仆都能轻松制作,甚至在小镇的熟食店也能买到。即使在今天,只要稍微拜托一下妻子,家里也能很快吃到这些菜。
但是,即使外观相同,对我来说,现在的这些菜肴的材料与乡愁中的过去味道是相似却不相同的。首先,蔬菜的味道就完全不同。战前,每家都吃很多蔬菜,随着需求的增加,对味道的要求也多,农民们也满怀热情地种植美味的蔬菜。(中略)
关于男性渴望“母亲的味道”的原因,有人说是家庭主妇偷懒和以孩子为中心的偏爱,但作为这样的主妇之一,我想说,味觉是非常流动且自私的。也就是说,与现代生活紧密相连的人们,适合的应该是现代的味道,而不是已经不存在的过去的味道。
迎合“母亲的味道”的潮流,尝试用全国最好的高汤煮那些因漂白而皮变硬、失去味道的山药,结果只是让人感到无趣。
(宫尾登美子《另一个相遇》新潮社)
(注1) 副菜: 配菜 (注2) 漂白: 通过日晒或使用化学品使之变白
他の人の成功事例を真似することが、必ずしも自分の成功を約束するものではなくなったのが今の時代です。昨日までの成功は、今日の成功を意味しません。そのような時代に大切なのは、やはり創造力です。そして創造力とは新しいものをつくりだす力を意味している以上、失敗を避けて培えるものではありません。創造力を身につける上でまず第一に必要なのは、決められた課題に解を出すことではなく、自分で課題を設定する能力です。
在当今时代,模仿他人的成功案例已不再是确保自己成功的必然途径。昨天的成功并不代表今天的成功。在这样的时代,创造力变得尤为重要。既然创造力意味着创造新事物的能力,它就不可能在避免失败的情况下培养出来。在培养创造力的过程中,首先需要的不是解决既定问题的能力,而是自我设定问题的能力。
拝啓 貴社ますますご盛栄のこととお喜び申し上げます。
先日お知らせいたしました通り、弊社は、事業拡大のため、来年1月に本社を現在の朝日ビル(北森区)から山中ビル(西川区)に移転いたします。それに先立ちまして、これまで東川区にございました国際課も、12月3日に山中ビル5階に移転することになりました。つきましては、以下の通り新住所および連絡先をお知らせいたします。
新住所:141-0023 東京都西川区大町1-5-20 山中ビル5階 新電話番号:03-7434-5656 新FAX番号:03-7434-5657
今後とも、なお一層のご愛顧のほどお願い申し上げます。
敬具
2010年11月10日 エービーシー株式会社 海外営業部長 田中春子
アサクラ株式会社 国際課長 西田良雄
敬启者,
欣闻贵公司日益繁荣昌盛,不胜欣喜。
如前所述,我公司为扩大业务,将于明年1月将总部从目前的朝日大厦(北森区)搬迁至山中大厦(西川区)。在此之前,目前位于东川区的国际部也将于12月3日搬迁至山中大厦5楼。特此通知您以下新的地址和联系方式。
新地址:东京都西川区大町1-5-20 山中大厦5楼 新电话号码:03-7434-5656 新传真号码:03-7434-5657
期待未来贵公司能继续给予我们更多的支持与厚爱。
敬上,
2010年11月10日 ABC株式会社 海外营业部长 田中春子
ASAKURA株式会社 国际课长 西田良雄
价值观和科学常识似乎对每个人来说,在任何时代都是不变的。然而,它们就像云的形状一样,看起来静止不动,实际上却在缓慢地变化。由于变化过于缓慢,许多人相信云朵是不变的,就像静止的画面一样。每个人都倾向于认为,在自己成长期间所看到的云朵形状才是“正确的云朵形状”。因此,不同世代的人们心中对云朵的形象逐渐产生了细微的偏差,导致了误解的发生。 (根据藤沢晃治《「わかりやすい教え方」の技術-「教え上手」になるための13のボイント》)
偭値観や科学的常識は、誰にとってもいつの世でも、変わらぬものだと感じがちです。しかしそれは雲の形のように、見えて静止しているように見えても、じつはゆっくりと変化しています。あまりにもゆっくり変化するため、多くの人が、雲は静止画のように変化しないものだと信じているのです。
誰もが、たまたま自分の成長期に見ていた雲こそが「正しい雲の形」だと思い込みます。こうしてそれぞれの世代の人の脳裏にある雲の姿は、お互いに少しずつズレってきて、すれ違いが起こるのです。 (藤沢晃治『「わかりやすい教え方」の技術-「教え上手」になるための13のボイント』による)
データが示す姿は光の部分もあれば影の部分もある。そのどちらか一方だけを強調することは、分かりやすさという面はあるものの、徒に対立軸を先鋭化させたり、無用の混乱を生じさせる危険性がある。
これらをいちいち意識しているのは大変であるが、少なくともデータをやみくもに信じてしまう態度だけはとるべきでない。データの罠を見分ける力、すなわちデータリテラシーは、多くの人にとって必要なものではあるが、本来は、公平で客観的な報道に努めるべきメディアに携わる人間が、しっかりと備えていなければならない必須の条件である。
(田村秀「データの異世論はこうしてつくられる」による)
注:先鋭化させる:ここでは、目立たせる。
数据所展示的图景既有光明的部分,也有阴影的部分。仅仅强调其中一方,虽然在理解上可能更为简单,但却有可能会不必要地突出对立轴,或者引发无谓的混乱。
虽然时刻意识到这些是很困难的,但至少不应该盲目地相信数据。识别数据陷阱的能力,即数据素养,对于许多人来说是必要的,但原本应该是那些致力于提供公平和客观报道的媒体从业者必须具备的基本条件。
(摘自田村秀《数据的异世论是这样形成的》)
私の通った幼稚園には、幅二十センチほどの帯状の地獄があった。それは「お弁当室」と呼ばれる部屋の戸口の床の、なぜかそこだけタイルの色が変わっている部分のことで、そこを踏むと地獄に落ちると言われていた。
どんな風に落ちるのかは誰にもわからなかったが、踏んだ瞬間に地面がガバッと裂けて、体ごと底なしの穴に吸い込まれてしまうのではないかというのが、関児たちのあいだでのもっばらの定説だった。お弁当室には、毎日各自お弁当を取りに行かなければならなかったので、そのたびにみんな決死の覚悟で「地獄」を飛び越えた。
我上过的幼儿园里,有一条大约二十厘米宽的带状“地狱”。那是在被称为“便当室”的房间门口地板上,只有那里瓷砖颜色不同的地方,据说踩到那里就会掉进地狱。
虽然没有人知道会怎么掉下去,但孩子们之间普遍的说法是,踩到的瞬间地面会突然裂开,整个人被吸入无底的洞里。因为每天都要去便当室取各自的便当,所以每次大家都抱着必死的决心跳过“地狱”。
すでに地図の空白がなくなった現在、地理的な冒険や探検といった行為は、時間が経つにつれてどんどん不可能になってきている。ジャーナリストの本多勝一氏は、冒険の条件として「命の危険性」と「行為の主体性」のニつをあげているが、①近代の冒険は、その後者が重要なのだ。それはつまり自己表現の問題とも密接に関わってくる。ここでいう表現とは、地図上に誰もたどったことがない軌跡を描くという意味である。これまでの人類の歩みを俯瞰(注1)して、その隙間を見つけ、自分なりの方法で空白を埋めていく行為と言い換えることもできる。わかりやすいところでは、登山におけるバリエーション・ルートや、8000メートル峰(注2)を無酸素で登ることや、厳冬期にどこそこを横断するとか、はじめて大陸の最高峰に全部登るとか、そういうことだ。未踏(注3)の地がなければ、点と点を結んで誰もおこなっていないことをすればいい。そうした点と点を結ぶのが厳しい土地、アクセスの難しい場所、思いもよらないルートを形成するなら、なおさらその注目度は増していく。冒険の世界には、海でも山でも空でも、そういう志向が必ずどこかに存在している。白紙のキャンバス(注4)に絵を描くためには表現力が必要なように、②地理的な空白がなくなった時代を生きる現代の冒険家たちは、そこに特別な自分なりの題材を見つけなくてはいけない。だからこそ③冒険者はアーティストでもあるといえる。
(石川直樹『最高の冒険家』による)
(注1): 俯瞰する: 全体を眺める (注2): 8000メートル峰: 8000メートル級の山 (注3): 未踏: まだ誰も足を踏み入れたことがないこと (注4): キャンバス: 絵を描くための布地
如今,地图上的空白已经消失,随着时间的推移,地理上的冒险和探险行为正变得越来越不可能。记者本多胜一将“生命的危险性”和“行为的主体性”列为冒险的两个条件,但①近代冒险中,后者更为重要。这实际上与自我表达的问题密切相关。这里所说的表达,意味着在地图上描绘出无人走过的轨迹。也可以说,这是俯瞰人类历史,寻找其中的空白,并用自己独特的方式填补这些空白的行为。在易懂的例子中,比如登山中的多样化路线,无氧攀登8000米高峰,严冬期横穿某地,首次攀登所有大陆的最高峰等,都属于此类。如果没有未探索的地方,只需连接点和点,做别人未曾做过的事情即可。如果这些点和点之间的连接是在艰难的土地上,难以到达的地方,或者形成意想不到的路线,那么其关注度会进一步增加。在冒险的世界里,无论是在海上、山上还是空中,这种志向总会在某个地方存在。就像在白纸上作画需要表现力一样,②在地理空白消失的时代生活的现代冒险家们,必须在那里找到自己独特的题材。因此,③可以说冒险者也是艺术家。
(摘自石川直树《最伟大的冒险家》)
世界の食糧供給の頭打ち(注1)、かつての日本と同じように、経済成長のために農業を衰退させ、一方では食生活の向上を図るアジアの動きなど、私たちが暮らしている輸入大国の基盤は意外に脆い。
私たちは、①このペンで食糧の危機管理体制を考えておく必要があるのではないか。 危機管理とは、いったんことが起きた時に、生産から流通までをどうするか、前もって体制作りを考えておくことである。 ②体制を制度にしておかないと、食料確保のためのある程度強制力を持った政策を実施することなど不可能である。畑にはイモ類を優先的に植えなければならない。個人的に嫌だという人がいても、国民が最小限の栄養をとるために協力してもらう必要がある。この点を制度化しておくのが良いのではないか、ということである。
平和な時には、この制度は眠らせておけばいい。いさという時に(注2)政府が発動(注3)するのである。普段は、政府はなるべく食料の生産や流通には介入すべきではない。それぞれの立場の人たちが、自由に活動出来るような環境を整えておく役割だけでいい。しかし何かの時には、食料管理に責任を持つ仕組みに移行するのである。多くの場合は、異常事態が過ぎ去るまでの一時的な措置になるだろう。
(中略)
食糧の危機管理体制とは、非常事態に備えた生産から流通までの仕組み作りである。発動する(注3)ことがないように祈りながら、制度を検討しておく必要があるのではないか。
(中村靖彦「コンビニ ファミレス 回転寿司」による)
(注1) 頭打ち: 限界に達して、それ以上に伸びなくなること (注2) いさという時に: 非常事態の起こった時に (注3) 発動する: ここでは、制度を実際に使う
世界粮食供应的停滞,以及像过去的日本一样,为了经济增长而使农业衰退,同时又试图改善饮食生活的亚洲趋势,使得我们生活的这个粮食进口大国的根基意外地脆弱。
我们是否应该①在这个背景下考虑粮食危机管理体制?危机管理是指一旦发生问题时,如何处理从生产到流通的各个环节,并提前构建体制。②如果不将体制制度化,就无法实施具有一定强制力的粮食保障政策。例如,必须优先在田地里种植薯类作物。即使有人个人不喜欢,为了国民能够获得最低限度的营养,也需要大家合作。这一点是否应该制度化,是一个值得考虑的问题。
在和平时期,这个制度可以暂时搁置。在紧急情况下,政府可以启动这个制度。平时,政府应尽量不干预粮食的生产和流通,只需为各自立场的人们创造一个能够自由活动的环境。但在某些情况下,需要过渡到负责粮食管理的体制。大多数情况下,这可能只是应对异常事件的临时措施。
(中略)
粮食危机管理体制是为应对非常事态而构建的从生产到流通的机制。虽然希望永远不要启动这个制度,但仍然有必要进行制度化的讨论。
(摘自中村靖彦《便利店、家庭餐厅、回转寿司》)
多少の誤解を恐れずに言うと、私は、いま、人ひとは「支配」というものを求めはじめているのではないかと感じるのです。個人個人が、てんでんばらばら、勝手気ままに行動するのではなく、ある程度の協調や団結のもとに行動しようとしはじめている。そんな動きを感じるのです。人びとのこのような心理の変化が、「リ-ダ-シップ論」の台頭と関係しているのではないでしょうか。
ここ十年くらい、この国のほとんどの組織は、--企業でも、組合でも、地城共同体でも--固定化された構造を「壊す」、あるいは「解体する」方向に進んできたと思います。「個人の自由」とか「個人の意思」といった言葉がとにかくよしとされ、反対に、「上意下達式」に命合がなされることは「悲」であるかのように見なされてきました。
多くの企業で、「チ-ムワ-ク」より「個人の能力」が重視され、「権限委譲」とか「個人の裁量」といった言葉が、キ-ワ-ドのように叫ばれてきました。年功序列型から成果型へのシフトが進み、給与の面でも、「固定給」から個人の出来高による「能力給」に変えるところが続出しました。
この傾向は先進的な組織ほど顕著で、がんじがらめの管理をやめて、個人が自由に能力を発揮できる環境作りをしよう、と叫んできました。もちろん、実態はそれほど「個人化」や「自由化」は進んでいなかったかもしれませんが、そうした取り組みが社会の新しいトレンドのようにもてはやされてきました。
このような傾向のために、「リ-ダ-シップ論」も、しばらく流行らなかったのです。ではなぜ、いまになって「リ-ダ-シップ論」が再燃してきたのでしょうか。
その理由の一つは、社会生活においても、プライベ-トにおいても、極度な情報化などのせいで「個人化」があまりに進みすぎたために、多くの人がどうしていいかわからなくなってきたからではないでしょうか。すなわち、自由になりすぎたためにもたらされた「孤独」のせいで、つらくなってきたのです。
坦率地说,我感到现在人们开始寻求某种“支配”。每个人不再各自为政、随心所欲地行动,而是开始在一定程度的协调和团结下行动。我感受到了这种趋势。人们这种心理变化是否与“领导力理论”的兴起有关呢?
近十年来,这个国家的几乎所有组织——无论是企业、工会还是地方共同体——都在朝着“打破”或“解体”固定结构的方向发展。诸如“个人自由”和“个人意志”这样的词汇被普遍接受,相反,“上意下達式”的命令被视为“悲哀”。
在许多企业中,“团队合作”不如“个人能力”受到重视,“权限委譲”和“个人裁量”这样的词汇被当作关键词来呼喊。从年功序列型向成果型的转变在推进,在薪酬方面,从“固定工资”向根据个人业绩的“能力工资”转变的地方也越来越多。
这种趋势在先进的组织中尤为显著,它们放弃了严格的管理,呼吁创造一个个人可以自由发挥能力的环境。当然,实际情况可能并没有那么“个人化”或“自由化”,但这些努力被视为社会的新趋势而受到追捧。
由于这种趋势,“领导力理论”也一度不流行。那么,为什么现在“领导力理论”又重新兴起呢?
原因之一是,在社会生活和私人生活中,由于极端的信息化等原因,“个人化”过度发展,许多人不知道该怎么办。也就是说,过度自由带来的“孤独”让他们感到痛苦。
私の通った幼稚園には、幅二十センチほどの帯状の地獄があった。 それは「お弁当室」と呼ばれる部屋の戸口の床の、なぜかそこだけタイルの色が変わっている部分のことで、そこを踏むと地獄に落ちると言われていた。 どんな風に落ちるのかは誰にもわからなかったが、踏んだ瞬間に地面がガバッと裂けて、体ごと底なしの穴に吸い込まれてしまうのではないかというのが、園児たちのあいだでのもっぱらの定説だった。お弁当室には、毎日午前中に各自お弁当を取りに行かなければならなかったので、そのたびにみんな決死の覚悟で「地獄」を飛び越えた。 (岸本佐知子「ねにもつタイプ」筑摩書房)
译文:
我上过的幼稚园里,有一个宽约二十厘米的带状地狱。 那是被称为“便当室”的房间门口地板上,不知为何只有那里瓷砖颜色不同的部分,据说踩到那里就会掉进地狱。 谁也不知道会怎么掉下去,但园童们之间普遍认为,踩到的瞬间地面会咔嚓一声裂开,整个人被无底洞吸进去。因为每天上午都要各自去便当室取便当,所以每次大家都抱着决死的觉悟飞跃“地狱”。 (引自岸本佐知子的《ねにもつタイプ》筑摩書房)
胃の存在は、しばしば意議される。多くの人が、日常的に「胃が痛い」とか、「胃が悪い」とか言う。だからといってそれが本当とは限らない。
指の先が痛いというのは、はっきりわかる。なぜかというと、腦には指に相当する知覚の領野が、ちゃんとあるからである。逆に、腦のその部分に、なにかが起これば、肝心の指はたとえなんともなくとも、われわれは指が痛いとか、かゆいとか、なにかが触ったとか、そういう判断をする。つまり体の表面に関しては、われわれは脳に地図を持っている。体表とは、外界とわれわれの体とを、境する部分だからである。そこはいわば国境のようなもので、腦という司令部は国境で起こることであれば、それが国境のどの部分で起こったできごとかを、明確に把握しているのである。
ところが内臓に関しては、脳にそういう地図はないらしい。そこは本来、「うまくいっている」はずの部分なのであろう。だから、脳はそこに関して、細かい地図を用意していない。それが用意されてあれば、胃の小弯側の幽門から約三分の一の部分が痛いとか、幽門部の始まりの部分が輪状に痛むとか、見てきたようなことが言えるはずなのだが、もちろんそれは不可能である。
胃的存在常常被提及。许多人日常会说“胃痛”或“胃不好”。但并不能因此就认为这是真的。
手指尖痛是显而易见的。这是因为大脑中有对应手指的知觉区域。相反,如果大脑的这部分发生了什么,即使手指本身没有任何问题,我们也会判断手指痛、痒或有东西触碰。也就是说,对于身体表面,我们的大脑有一张地图。身体表面是外界与我们的身体之间的边界,可以说是国境。大脑这个指挥部对国境上发生的事情,能够明确地掌握是在国境的哪个部分发生的。
然而,对于内脏,大脑似乎没有这样的地图。那里本来应该是“运作良好”的部分。因此,大脑没有为那里准备详细的地图。如果有这样的地图,我们就能说出胃的小弯侧的幽门约三分之一的部分痛,或幽门部开始的部分呈环状痛等,但当然这是不可能的。
「コミュニケーション」という語は、通常、双方がメッセージを伝え合うこと、あるいは意思を疎通させることといった意味合いで用いられているが、これは実際のコミュニケーションの全体像をとらえてはいない。たとえば、黙って何も語らないこともコミュニケーションの行為であり、また視線の動きやちょっとした仕草だけでも、十分にコミュニケーションは成立する。 (小竹裕『アジア人との正しい付き合い方―異文化間の学び』による)
译文:
“コミュニケーション”这个词通常用于表示双方互相传递信息或沟通意思的含义,但这并没有完全捕捉到实际沟通的全部面貌。例如,沉默不语也是一种沟通行为,而且仅仅通过视线移动或一些细微的动作,也能充分实现沟通。 (引自小竹裕的《与亚洲人正确交往的方法——跨文化学习》)
(注1)ネット社会の匿名性は完全に透明人間の心理です。自分がどこに(注2)アクセスしているかなど、みんなにわかってしまうなら、やっても面白くないはずです。それだと制限のある普通の社会と同じだから。ですから、ネット社会の匿名性というのは、心理的には透明人間の世界なのです。しかも初期には規制はほとんどなかった。今でも巨大(注3)匿名揭示板(注4)「2ちやんれる」などでは、犯罪を起こした場合は摘発されますが、そこまでいかなければ、何を書いてもいい社会になっています。 (竹内蒸·荒野健彦『「透明人間」の作り方』による)
(注1)ネット社会:インターネット上的社会
(注2)アクセスする:这里指在インターネット上连接各种网站
(注3)匿名掲示板:可以在不透露姓名的情况下自由发表言论的インターネット上的网站
(注4)「2ちやんれる」:日本的一个匿名掲示板,涉及广泛领域,用户众多
译文:
(注1)网络社会的匿名性是完全的透明人心理。如果大家都知道自己在访问哪里等,那就没什么意思了。那样的话,和有制约的普通社会没什么两样。因此,网络社会的匿名性,从心理上来说,是透明人的世界。而且初期几乎没有管制。即使在现在,像巨大的(注3)匿名掲示板(注4)「2ちやんれる」这样的地方,如果犯罪会被揭发,但如果没有到那个程度,无论写什么都可以的社会。
(引自竹内蒸·荒野健彦的《「透明人間」の作り方》)
2009年12月14日 お客様各位 (株)ファニチャー美木 http://www.Furnituremiki.co.jp/
拝啓
師走の候、ますますご盛栄のこととお喜び申し上げます。日頃項より格別のご愛顧を賜りありがとうございます。 さて、誠に勝手ながら、弊社は年末年始の下記期間を休業とさせていただきます。休業期間中も弊社ホームページでのお問い合わせ・ご注文は可能ですが、対応はすべて休業明けとなります。お問い合わせへのご回答・商品の発送等に通常より時間がかかりますことをあらかじめご了承下さいますようお願い申し上げます。
敬具
記
2009年12月29日から2010年1月4日まで
以上
译文:
2009年12月14日 各位顾客 (株)ファニチャー美木 http://www.Furnituremiki.co.jp/
敬启 时值岁末,祝贵公司日益繁荣昌盛。感谢平日里给予我们的特别关照。 在此,我们不得不告知,本公司将在年末年初的以下期间休业。休业期间,我们仍可在公司主页上接受您的咨询和订单,但所有回复将在休业结束后进行。因此,关于咨询的回复和商品的发送等,会比平时需要更多时间,请您提前谅解。 敬上 记 2009年12月29日至2010年1月4日 以上
原文排版如下:
飲料大手の商品開発担当者が「当たり前の名前では消費者の(注1)琴線に触れず、踏み込みすぎると『ふさけている』と思われる。そのバランスを測り、試行錯誤を続けるしかない」と語っていましたが、本音でしょう。でも(注2)場当たり的なネーミングでは過激な競争に勝ち抜けません。音に対する感性を磨き、音の表情に敏感になり、(注3)何はさておき自社製品を愛し、育てる意欲を持つことがネーミングの前提条件です。 (木通隆行「ネーミングの極意-日本語の魅力は音がつくる」による)
(注1)琴線に触れず:心を動かさず (注2)場当たり的なネーミング:不充分考虑,凭一时兴起取名 (注3)何はさておき:首先第一
49.競争に勝つような商品名にするには、まず何が必要だと述べているか。
1.音の持つ表情に敏感になり、音と味とのバランスに気を配る。
2.自社のイメ-ジを大切に思い`、消費者の音の好みを考感する。
3.音と味への感性を磨き、その商品が持つイメ-ジを考慮する。
4.開発した商品ペの思いを大切にし、音の持っ響きに気を配る。
译文:
饮料大公司的商品开发负责人说:“普通的名字无法触动消费者的琴弦,太过激进又会被认为是开玩笑。只能不断尝试,找到那个平衡点。”这可能是真心话。但是,如果只是临时起意的命名,是无法在激烈的竞争中脱颖而出的。首先,需要磨练对音的感性,对音的表情敏感,最重要的是,要热爱并培养自己公司的产品。 (引自木通隆行的《命名的精髓——日语的魅力由音构成》)
「あの人は、私が話し始めて一分とたたないうちに、話題を自分の話にすりかえてしまう」と言われる人のなかには、決して聞き上手ではないけれど、不思議と嫌われない人がいる。 話を奪われた人も、「私の話よりずっとおもしろそう。私の(注1)話が宙に消えてもしょうがないか」という宽容な気持ちになるのだろう。 もちろん、私は「だから、話上手になればいいんですよ」とは言わない。ただ、「聞き上手でないことが帳消しになるほど話上手な人のしゃべりは、ちょっと研究してみる価値がありますよ」とご提案したい。 聞き上手になるための(注2)“修業”をしていると、そのうち話の上手な人の特徴がわかってくると思う。 聞き上手から、話上手でもあるというプラスアルファの魅力を持つ人間へと(注3)ステップアップするには、いつの間にか相手を自分の話に引きこむのが上手な人の話ぶりを、「それはなぜなのか」と自分なりに分析すると、とても勉強になるのだ。 一人で分析するのが難しければ、だれかに「あの人は話が上手だよね。どんな話しぶりに惹かれる?」と疑問をぶつけてみるのもいい。 その勉強の成果は必ずや、自分の行動に反映されるはずだ。だれだって、他人のいいところは真似したいと思うから。 (斉藤茂太『どんなグズもなおる本-17タイプ別グズ解消法』による)
(注1)話が宙に消える:話が途中でどこかへ行ってしまう (注2)修業:学んで身につけること (注3)ステップアップする:進歩する
译文:
“那个人,我刚开始说话不到一分钟,就把话题转到自己的事情上了。”有些人虽然绝对不是善于倾听的人,但奇怪的是,他们并不被人讨厌。 被抢走话题的人也会想:“他的话题似乎比我的有趣得多。我的话题就算中途消失也没办法。” 当然,我不会说“所以,只要变得擅长说话就好了”。我只是想提议:“那些即使不擅长倾听也能通过说话吸引人的人的说话方式,值得研究一下。” 如果你在为成为善于倾听的人而努力,我想你最终会明白那些擅长说话的人的特点。 为了从只擅长倾听的人变成既擅长倾听又擅长说话的人,分析那些不知不觉中就能吸引对方进入自己话题的人的说话方式,并自问“为什么会这样”,这会非常有帮助。 如果自己分析有困难,可以问别人:“那个人很会说话吧?你被他什么样的说话方式吸引?” 这种学习的成果一定会反映在你的行为上。因为每个人都想模仿别人的优点。 (引自斉藤茂太的《任何缺点都能改正的书——17种类型缺点的解决方法》)
ツバメは季節の変化にあわせて、くらす場所をかえる渡り鳥です。日本が冬の時期は、暖かくてえさの豊富なオーストラリアや東南アジアでくらしています。たまごを産んでひなを育てる繁殖期が近づくと、春になってえさとなる昆虫が増える日本へ向けて、いのちがけで海を渡ってきます。 ツバメの渡りは地球の南半球から北半球へと、何千キロメートルにもなります。ツバメがいつ渡ってきたかで、ツバメがくらしていた地域や、渡りのルートの気象の変化や環境の変化を(注)おしはかることができます。そして、その変化を長期間にわたって観察をつづけることで、地球全体の気象の変化を予測する手がかりにもなるので、気象庁では、その年にはじめてツバメを見た日「ツバメの初見日」を、各地の観察者や研究者からの報告をもとに、記録をとっているのです。 ツバメが渡りの行動をおこすのは、日照時間にかかわりがあるといわれています。(中略) 日照時間は年ごとの変化が比較的少ないので、日時がそれほどずれることがありませんでした。ところが長年蓄積された記録を調べてみると、近年、各地のツバメの初見日が早まってきていることがわかってきました。 その原因は……。 まだはっきりとつきとめられてはいませんが、地球温暖化によっておこる気象の変化でオーストラリアや東南アジア地方の晴、雨天のバランスがくずれ、日照時間にまでくるいがでてきているのかもしれません。 (七尾純『テクテク観察 ツバメ日記』による)
(注)おしはかる:推測する
译文:
燕子是根据季节变化而改变栖息地的候鸟。当日本进入冬季时,燕子会飞到温暖且食物丰富的澳大利亚和东南亚地区生活。当繁殖期临近,春天到来,日本的食物昆虫增多时,燕子会冒着生命危险飞越大海来到日本。 燕子的迁徙从地球的南半球到北半球,距离长达数千公里。通过观察燕子何时迁徙,可以推测燕子栖息地的变化、迁徙路线的气象和环境变化。而且,通过长期观察这些变化,可以成为预测全球气象变化的线索。因此,气象厅会根据各地观察者和研究者的报告,记录每年首次看到燕子的日期,即“燕子的初见日”。 据说燕子开始迁徙的行为与日照时间有关。(中略) 日照时间每年的变化相对较小,因此日期不会偏差太多。然而,通过查阅多年积累的记录,发现近年来各地燕子的初见日有所提前。 其原因……。 虽然尚未明确,但可能是由于地球温暖化引起的气象变化,导致澳大利亚和东南亚地区的晴雨平衡被打破,甚至影响到日照时间。 (引自七尾纯的《观察燕子日记》)
心理学は昔から心について研究してきたわけですが、実は肝心の感情(情動)についてはまだよくわかっていないのです。えっ、感情こそ心理学が得意とするところではないのですか、と①不思議に思われるかもしれません。しかし、現代の心理学が得意としているのは、どちらかというと、私たちが目や耳で周囲の世界をどのようにとらえるかという感覚や知覚の働きであり、どのようにものを考えるかといった認知と呼ばれる働きについてです。それらの働きと感情を一体化した心のプロセスが、私たちの②全体的な「生」の体験なのかもしれません。 最近では脳科学やコンピュータの専門家と協力しながら、世界中の精鋭たちが心のメカニズムの研究に取り組んでいます。その成果がロボット工学などに応用されているわけです。人間と同じように見たり、聞いたり、歩いたり、話したりする精巧なロボットたちが作られています。しかし、まだ感情機能を持つに至っていないのはご存知のとおりです。ロボットもうれしそうな表情などをしてみせることはできます。犬型のペット・ロボットならしっぽを振る仕草もします。しかし、それらは表面的な動作を真似しているだけで、感情の働きがそうさせているわけではありません。複雑な心の働きの中でも特に感情機能を解明するのは難しく、それをうまく再現できないからです。 感情は私たちの体験を豊かに(注1)裏打ちして、なにかを選んだり、しようとしたりする行動を(注2)駆り立てる動因にもなります。例えば、好き嫌いを理屈(論理)で説明することは難しいはずですが、実際の行動は簡単にやれます。ボーイフレンドやガールフレンドを論理や計算だけで選ぶ人はいないはずです。まあ、(注3)計算づくで結婚相手を決めようとする人もいるでしょうが、その裏には別の気持ちが動いていそうです。感情は私たちの思考や行動の土台になっていると考えることができそうです。そのため、気持ちの落ち込みがひどいときには、普段何気なくやれていたことができなくなることがあるのです。 (佐藤静『こころサポート』による)
(注1)裏打ちして:土台として支えて
(注2)駆り立てる:何かをせずにはいられないような気持ちにさせる
(注3)計算づくで:自分の損にならないようにいろいろ考えて
译文:
心理学从古至今一直在研究心灵,但实际上,对于核心的感情(情动),我们仍然知之甚少。也许有人会感到奇怪,感情不正是心理学擅长的领域吗?然而,现代心理学擅长的,更多的是关于我们如何通过眼睛和耳朵感知周围世界的感觉和知觉功能,以及如何思考的认知功能。这些功能与感情相结合的心理过程,可能是我们整体“生活”体验的一部分。 最近,脑科学和计算机专家们正在全球范围内合作,致力于研究心灵的机制。这些成果被应用于机器人工程等领域。已经制造出了能够像人类一样看、听、走、说的精密机器人。然而,众所周知,它们尚未具备感情功能。机器人可以表现出高兴的表情,狗型宠物机器人可以摇尾巴。但这些只是模仿表面动作,并非感情在驱动它们。解明复杂的内心活动中的感情功能尤其困难,因为我们还不能很好地再现它。 感情丰富了我们的体验,成为选择某物或采取行动的驱动力。例如,很难用道理(逻辑)解释喜欢或讨厌,但实际的行动却很容易做到。没有人会仅凭逻辑和计算选择男朋友或女朋友。当然,也有人试图通过计算来决定结婚对象,但背后似乎有其他情感在起作用。感情似乎是我们思考和行动的基础。因此,当心情低落时,平时不经意间能做到的事情有时也会变得困难。 (引自佐藤静的《心灵支持》)
A
しっかりした人生を歩むには、やはり「学歴」が必要です。そう断言すると(注1)眉をひそめる人もいるかもしれません。しかし私には、学歴なんかいらない、あるいは、(注2)ほどほどでかまわないという考え方は、中途半端なきれいことに思えてなりません。 学歴がなくて苦労をしたという話は、普段さんさん聞かされました。最近はあまり言われていないだけで、本当はもっと厳しい選別が行われているそうです。(中略) 親ならば、一生を幸せに生きていける、一生、食べるのに困らない「生きるカ」を、子供に付けさせるべきです。そして、そのための最良の方法が「学歴を付けさせる」ことだということは、今も昔も、変わりないのではないでしょうか。 (和田寿栄子『子供を東大に入れる母親のちょっとした「習慣術」』による)
B
いったい、学歴とはなにものなのか。 会社は、厳しい過当競争のさなかにあって、実力で勝負しなければならないというのに、そこで働いている人は、入社前に教育を受けた「場所」で評価されるというのは、どう考えても納得がいかない。教育の「質」が問われるのならばまだ解る。「場所」というのは、正常ではない。わずか数年間の学校教育が、以後何十年にもわたって、その人の看板として通用するというのは、奇妙というほかはない。 (中略)ほんの小さなグループから出発した私たちの会社では、何でもやれる人が、それをやる、といった気持ちで仕事をしてきたつもりであったのに、人数が増えてくるに従って、いつとはなしに、学歴による区分といった方式が、なんとなく取り入れられつつある事実に気付いて、はっとしたことがある。 (盛田昭夫『学歴無用論』による)
(注1)眉をひそめる:皱眉,表示不满或不赞同
(注2)ほどほどでかまわない:差不多就行,不必太在意
译文:
A
要过上坚实的人生,学歴仍然是必要的。这样断言可能会让一些人皱眉。但我认为,认为学歴不重要或差不多就行的想法,是半途而废的漂亮话。 我经常听到没有学歴而吃苦的故事。最近虽然不怎么说了,但实际上据说选拔更加严格。(中略) 作为父母,应该让孩子具备一生都能幸福生活、一生都不愁吃穿的“生存能力”。而为了这个目的,最好的方法就是“让孩子获得学歴”,这一点无论现在还是过去,都没有改变。 (引自和田寿栄子的《让孩子考上东大的母亲的小习惯术》)
B
学歴到底是什么? 公司处于激烈的过度竞争中,必须靠实力竞争,但在那里工作的人却根据入社前接受教育的“场所”来评价,这无论如何都无法理解。如果教育的“质量”被问及,那还可以理解。但“场所”是不正常的。仅仅几年的学校教育,以后几十年都能作为那个人的招牌,这真是奇怪。 (中略)我们公司从小小的团队起步,原本以为会由什么都能做的人来做,但随着人数的增加,不知不觉中,根据学歴进行区分的方式似乎正在被引入,这让我感到惊讶。 (引自盛田昭夫的《学歴无用论》)
給与には外的報酬と内的報酬のふたつがある。 外的報酬とは給与そのものやインセンティブ(賞励金)といった、お金として受け取れるものである。 それに対して内的報酬とは、給与の額には表れないが、その仕事を通して得られる満足の報酬といったものである。 たとえば、こんな給与はどうだろうか。 外部の人と知り合う機会がある「出会い給与」、そこにいるだけで新しい情報に触れられる「情報供与」、専門的な技を習得できる「技磨き給与」、気の合った仲間と一緒にいられる「ふれあい給与」、そして一流の人をそばで(注1)ウオッチできる「おそば給与」など、そんな給与の名称はないが、あると嬉しい給与である。 私の場合、外的報酬よりも内的報酬を増やすことを心がけてきた。 たしかに、同僚よりも低く評価されたショックは今でも忘れられないし、同期とのボーナスの差が何十万もあって悔しいと思ったこともあった。 しかし、生活が脅されるほどの額でもないと割り切れば、目に見えない給与を増やすほうが個人的な満足は高いことがわかったのである。 また、仕事を長く続けていくには、内的報酬がちゃんとなくてはつとまらないということもわかってきた。 仕事をなし遂げたときの「達成感」や、自分が成長していることを実感できる「成長感」こそ仕事の原動力であって、他人からの評価という、自分の努力では(注2)いかんともしがたいものにとらわれすぎるのは得策ではないと気づいたのである。 (中略) どんなに外的報酬が高くても内的報酬が極端に低い仕事だと、長く続けることはできない。また、①そこで得たお金は身につかないことが多い。 いっぽう、内的報酬の高い仕事なら、もしかしたら特來(注3)ビッグな報酬に化けるかもしれない。その可能性は充分にあると言っていい。たとえ変ってこなかったとしても、続けていけるよさはある。 私の友人に、編集部で十年間アルバイトを続けた人がいる。正社員に比べて給与は低く、ボーナスも、退職金ももちろんない。 しかし、その後(注4)フリーになった友人は、正社員よりもはるかに多い報酬を得るようになった。アルバイトの十年間で技術を身につけ、人脈を培い、仕事の幅を広げた、②まさに内的報酬が外的報酬へと実を結んでいったのである。 時価で給与を計るより、心の満足を含めたトータルかつ長期の視点で報酬をとらえないと、結局のところ給与は増えていかないのだと思う。 (松永真理「シゴトのココロ」による)
(注1)ウオッチできる:ここでは、観察できること
(注2)いかんともしがたい:どうしようもない
(注3)ビッグな:大きな
(注4)フリー:フリーランスの略。特定の組織に所属せず自由に仕事をする人
译文:
給与分为外的報酬和内的報酬两种。 外的報酬是指可以以金钱形式获得的給与本身或奖励金等。 与之相对,内的報酬是指虽然不体现在給与金额上,但通过工作获得的满足感等。 例如,这样的給与如何呢? 有机会认识外部人士的“出会い給与”、在那里就能接触到新信息的“情報供与”、可以学习专业技能的“技磨き給与”、能与志同道合的伙伴在一起的“ふれあい給与”、以及可以观察一流人士的“おそば給与”等,虽然没有这样的給与名称,但如果有的话会很高兴。 就我而言,我更注重增加内的報酬。 确实,被同僚低评的打击至今难忘,与同期相比奖金差了几十万而感到懊悔的事情也有过。 但是,如果认为这不是威胁到生活的大额,那么增加看不见的給与会带来更高的个人满足感。 此外,我也明白了,要长期从事工作,内的報酬是不可或缺的。 完成工作时的“達成感”和能实际感受到自己成长的“成長感”才是工作的原动力,过于拘泥于他人评价这种自己无法控制的东西并不是明智之举。 (中略) 即使外的報酬再高,如果内的報酬极低,就无法长期坚持。而且,①在那里得到的金钱大多不会真正属于自己。 另一方面,如果内的報酬高的工作,也许会变成特來(注3)ビッグ的報酬。可以说这种可能性是充分的。即使没有变成那样,也有继续下去的价值。 我的朋友在编辑部做了十年的兼职。与正式员工相比,給与较低,也没有奖金和退休金。 但是,后来成为自由职业者的朋友,获得的報酬远高于正式员工。在兼职的十年间,他掌握了技术,建立了人脉,拓宽了工作范围,②正是内的報酬结出了外的報酬的果实。 我认为,与其按市价计算給与,不如从包含心灵满足的总体和长期视角来看待報酬,否则最终給与不会增加。 (引自松永真理的《工作的内心》)
食器のバラエティこそ、日本のやきものの特色の一つだと思います。そして、日本人のやきものに対する思いとか愛着は、食器のみならず、種類の豊富さにあらわれているといってもいいでしょう。
私たちは食事のために、もちろん料理も食べていますが、知らずに目で食器も「食べて」いるのです。だから興味・関心がないというのは、不注意なだけなのです。すでに下地はできているのですから、あと一歩踏み込めば、やきものに興味・関心がグッと深まるはずなのだと思います。
(江口滉「やきものの世界」による)
(注) やきもの: 陶芸品
译文
我认为食器的多样性正是日本陶艺的特色之一。而且,日本人对于陶艺的情感和喜爱不仅体现在食器上,也体现在种类的丰富性上。
我们在用餐时,当然会吃料理,但不知不觉中,我们也在用眼睛“品尝”食器。因此,说对陶艺没有兴趣和关心,只是因为不够注意。既然基础已经打好,只要再向前迈进一步,对陶艺的兴趣和关心一定会大大加深。
(摘自江口滉《陶艺的世界》)
(注)やきもの:陶艺品
おとなは子どもに「嘘つきは泥棒のはじまり」として正直であることを強要しますが、弱者は苦しい嘘をついてでも自らの尊厳を守ろうとします。
論理的に正しいことを理性と呼ぶとすれば、理性的にあることができるのは強者だからです。強者はそれゆえに理性的に弱者の過ちを責めようとしますが、弱者の立場からいえば、それは何の意味も持たないことが多いのです。弱者のする謝罪とは、劣勢を一時的に解消する手続きや儀式にすぎないのです。
(吉田脩二『ヒトとサルのあいだ--精神はいつ生まれたのか』による)
译文
成年人会告诉孩子“撒谎是偷窃的开始”,并强迫他们保持诚实,但弱者即使说痛苦的谎言也要保护自己的尊严。
如果将逻辑上正确的事情称为理性,那么能够理性行事的只有强者。因此,强者会理性地指责弱者的错误,但从弱者的立场来看,这往往毫无意义。弱者的道歉只不过是暂时解除劣势的程序或仪式。
(摘自吉田脩二《人与猿之间——精神何时诞生》)
東本夕イヤ株式会社
2011年6月15日
タイヤ価格改定のお知らせ
当社は原材料価格の高騰を受け、トラック・バス等の特殊車両用タイヤの値上げを、本年3月(夏用タイヤ)および4月(冬用タイヤ)実施致しました。
しかし、原材料のさらなる価格高騰が続き、現在の出荷価格の維持が不可能であると判断し、本年9月1日より、一般車両用タイヤを含むすべてのタイヤの出荷価格を改定することと致しました。何卒ご理解頂きますようお願い申し上げます。
以上
译文
東本夕イヤ株式会社
2011年6月15日
轮胎价格调整通知
由于原材料价格大幅上涨,我公司已于今年3月(夏季轮胎)和4月(冬季轮胎)对卡车、巴士等特殊车辆用轮胎进行了价格上调。
然而,原材料价格的进一步上涨仍在持续,我们判断目前无法维持出库价格,因此决定自今年9月1日起,对包括一般车辆用轮胎在内的所有轮胎的出库价格进行调整。恳请各位理解并支持。
以上
思春期を迎えた最近の子どもがストレスに弱いのは、それまでの発達過程で適度にストレスにさらされる経験を十分に経てこなかったことが深く関係している。しかもそれは、彼らが社会化を十分に遂げてこなかったことと等しい。というのも、10代前半までの子どもは、それまでの生活圏を出てより広い社会的脈のなかでいかにして自己を実現させるかという課題に取り組むなかで、もっとも強くストレスを味わうからにほかならない。
(正高信男『父親力』による)
译文
最近进入青春期的孩子对压力的承受能力较弱,这与他们在成长过程中没有充分经历适度暴露于压力之下的经验密切相关。而且,这等同于他们没有充分完成社会化过程。因为10岁前半段的孩子,在走出之前的生活圈,进入更广阔的社会环境中,如何实现自我这一课题的过程中,会感受到最强烈的压力。
(摘自正高信男《父亲的力量》)
以前、花見をしている時に「桜の花は本当にきれいな正五角形だれ」と言ったら、風情のない人だと笑われたことがあった。確かに、桜の花びらには微妙な色合いや形、そして香りに加えて、散りゆく美しさがある。花を愛でる和歌や俳句は数限りないが、そのなかに「正五角形」という言葉が使われたことはおそらく一度もないであろう。科学者特有の美意識は、風流とはかなり異質なものなのだと悟った。
科学において本質以外を切り捨てるためには、大胆な抽象化と理想化が必要である。桜の花びらのたくさんの特徴の中から「正五角形」という形だけを取り出すこと。これが抽象化である。実際に数学的な意味で完全な正五角形を示す花びらは少ないだろうが、そこにはあまりこだわらない。これが理想化である。
自然界で正五角形のような対称性を示すためには、必ず規則的な法則があるはずである。花の場合、品種によって花弁の回転対称性が遺伝子で決定されていることは間違いないから、うまくこの遺伝子を突きとめられれば、花の形を決める普遍的な法則が見つかるに違いない。このように、抽象化と理想化によって自然現象は単純に整理でき、普遍的な法則を見つける助けになる。
(酒井邦嘉『科学者という仕事』による)
译文
以前,在赏花时,我说了一句“樱花的花瓣真的很漂亮的正五角形”,结果被嘲笑为不懂风情的人。确实,樱花的花瓣有着微妙的色彩、形状和香气,以及凋零时的美丽。赞美花的和歌和俳句数不胜数,但其中恐怕从未使用过“正五角形”这个词。我意识到,科学家特有的美感与风雅是相当不同的。
在科学中,为了舍弃本质以外的东西,需要大胆的抽象化和理想化。从樱花花瓣的众多特征中提取出“正五角形”这一形状,这就是抽象化。实际上,在数学意义上完全呈现正五角形的花瓣可能很少,但对此不必过于执着,这就是理想化。
在自然界中,要表现出正五角形这样的对称性,必然存在某种规律。对于花朵来说,不同品种的花瓣旋转对称性由基因决定,这一点是毋庸置疑的。如果能巧妙地找到这个基因,就一定能发现决定花朵形状的普遍规律。通过抽象化和理想化,自然现象可以被简化整理,有助于发现普遍规律。
(摘自酒井邦嘉《科学家的工作》)
住居を買おうとするときは、その資産的な価値に重点を置いて考える人が多い。普通の人にとっては、一生に一度の買い物とでもいうべきもので、多額の金を費やさなくてはならないので、当然のことだ。買った後で、何らかの事情で売らなくてはならない羽目になったときに、価値が減少していたのでは、大損害を被る。
だが、住居にとってより重要なのは、その有用性である。住みやすさが必要なのはもちろんだが、自分のライフスタイルに合った構造になっているとか、生活のしやすい環境にあって利便性に富んでいるとかの点も、重要な要素である。それらは必ずしも世間一般の価値基準とは一致しない。したがって、自分たちの考え方や行動様式に従い、それに照らし合わせて判断する必要がある。
特に、終の住処として考えるときには、自分たちの生き方をはっきりと見極め、その視点に立ったうえで、選択し決めていかなくてはならない。年を取ってくれば、当然のことながら、行動する能力は衰えてきて、動き回る範囲は狭まってくる。
自分たちの余生がどのようなものになるかについて、計画を立てたうえに想像力を働かせて、確実性の高い予測を組み立ててみる。その未来図に従って、住むべき場所の見当をつけ、住居の大きさや構造などを決めていく。もちろん、将来の経済状勢の大きな変化に備えて、予算を大きく下回る出費に抑えておくことも必要であることは、いうまでもない。
(山崎武也『シニアこそ都会に住もう-田舎暮らしは不安がいっばい』による)
(注1) 有用性: 役に立つこと (注2) 利便性: 便利さ (注3) 終の住処: 人生を終えるまで住む家
译文
在考虑购买住宅时,很多人会着重考虑其资产价值。对于普通人来说,这可以说是人生中的一次重大购买,需要花费大量资金,这是理所当然的。如果在购买后因某种原因不得不出售,而其价值已经减少,将会遭受巨大损失。
然而,对于住宅来说,更重要的是其有用性。当然,居住的舒适性是必要的,但住宅是否符合自己的生活方式、是否位于生活便利的环境中,这些也是重要的因素。这些并不一定与社会普遍的价值标准一致。因此,需要根据自己的想法和行为方式,结合这些因素进行判断。
特别是作为最终的居住地来考虑时,必须明确自己的生活方式,并在此基础上进行选择和决定。随着年龄的增长,行动能力自然会衰退,活动范围也会缩小。
对于自己的余生会是什么样子,应该制定计划并发挥想象力,构建一个可靠的预测。根据这个未来图景,确定适合居住的地方,决定住宅的大小和结构等。当然,为了应对未来经济形势的重大变化,将支出控制在预算范围内也是必要的。
(摘自山崎武也《老年人更应该住在城市——乡村生活充满不安》)
人間は、所詮、時代の子であり、環境の子である。わたしたちの認識は、自分の生きてきた時代や環境に大きく左右される。ある意味、閉じ込められているといってもいい。認識できる「世界」はきわめて限定的なのであり、時代や環境の制約によって、認識の鋳型ができてしまうから、場合によっては、大きく歪められた「世界」像しか見えなくなることもある。わたしたちは、①そういう宿命を背負っているのである。
だから、「世界を知る」といいつつ、実は、偏狭な認識の鋳型で「世界」をくり貫いているだけということが生じたりする。鋳型が同じである限り、断片的な情報をいくら集めたところで、「世界」の認識は何も変わらない。固まった世界認識を持つことは、「世界」が大きく変化する状況では非常に危険なことである。
一方で、これほど情報環境が発達したにもかかわらず、②「世界を知る」ことがますます困難になったと感じている人も増加している。果てしなく茫漠と広がり、しかも絶えず激動する「世界」が、手持ちの世界認識ではさっばり見えなくなってきているからだ。たしかに、ただ漠然とメディアの情報を眺めているだけでは、潮流に巻き込まれてしまう。
いまこそ、時代や環境の制約を乗り越えて、「世界を知る力」を高めることが痛切に求められているのではないか。
もちろん、時代や環境の制約から完全に自由になることはない。しかし、凝り固まった認識の鋳型をほぐし、世界認識をできるだけ柔らかく広げ、自分たちが背負っているものの見方や考え方の限界がどこにあるのか、しっかりとらえ直すことはできるはずだ。
(寺島実郎「世界を知る力」による)
(注1) 鋳型: ここでは、画一化した型 (注2) くり貫いて: ここでは、切り取って (注3) 茫漠: 広がりがあり過ぎて、はっきりしない様子
译文
人是时代的产物,也是环境的产物。我们的认知受到自己所处时代和环境的影响。在某种意义上,可以说我们是被束缚的。能够认知的“世界”是非常有限的,由于时代和环境的限制,形成了认知的框架,有时只能看到被严重扭曲的“世界”形象。我们背负着这样的宿命。
因此,虽然说是“了解世界”,但实际上只是用狭隘的认知框架去切割“世界”。只要框架不变,无论收集多少零碎的信息,对“世界”的认知都不会改变。在“世界”发生巨大变化的背景下,固守已有的世界认知是非常危险的。
另一方面,尽管信息环境如此发达,但越来越多的人感到“了解世界”变得越来越困难。因为“世界”无边无际、广阔无垠,而且不断剧烈变化,仅凭现有的世界认知已经无法看清。确实,仅仅茫然地浏览媒体信息,就会被潮流卷走。
现在,迫切需要超越时代和环境的限制,提高“了解世界的能力”。
当然,我们无法完全摆脱时代和环境的限制。但是,我们可以松动固化的认知框架,尽可能拓宽世界认知,重新审视我们看待和思考事物的局限性。
(摘自寺島実郎《了解世界的能力》)
我が身が生涯に望み、知りうることは、世界中を旅行しようと、何をしようと、小さい。あきれるくらい小さいのだが、この小ささに耐えていかなければ、学問はただの大風呂敷になる。言葉の風呂敷はいくらでも広げられるから、そうやっているうちに自分は世界的に考えている、そのなかに世界のすべてを包める、①そんな錯覚に捕らえられる。木でいい家を建てる大工とか、米や野菜を立派に育てる農夫とかは、そういうことにはならない。世界的に木を削ったり、世界標準の稲を育てたりはできないから、彼らはみな、自分の仕事において賢明である。我が身ひとつの能力でできることを知り抜いている。学問をすること、書物に学ぶことは、ほんとうは②これと少しも変わりはない。なぜなら、そうしたことはみな我が身ひとつが天地の間でしっかりと生きることだからだ。
人は世界的にものを考えることなどはできない。それは錯覚であり、空想であり、愚かな思い上がりである。ただし、天地に向かって我が身を開いていることならできる。我が身ひとつでものを考え、ものを作っているほどの人間なら、それがどういう意味合いのことかは、もちろん知っている。人は誰でも自分の気質を背負って生まれる。学問する人にとって、この気質は、農夫に与えられる土壌のようなものである。土壌は天地に開かれていなければ、ひからびて不毛になる。与えられたこの土を耕し、水を引き、苗を植える。苗がみずから育つのを、毎日助ける。苗とともに、自分のなかで何かが育つのを感じながら。学問や思想もまた、人の気質に植えられた苗のように育つしかないのではないか。子供は、勉強して自分の気質という土を耕し、水を引き、もらった苗を、書物の言葉を植えるのである。それは、子供自身が何とかやってみるほかはなく、そうやってこそ、子供は学ばれる書物とともに育つことができる。子供が勉強をするのは、自分の気質という土壌から、やがて実る精神の作物を育てるためである。「教養」とは、元来この作物を指して言うのであって、物識りたちの大風呂敷を指して言うのではない。
(前田英樹『独学の精神』による)
(注1) 大風呂敷: 実際より大きく見せたり言ったりすること
(注2) ひからびて: 乾ききって
(注3) 物識り: 物事をよく知っている人
译文
我们一生所能期望和了解的事情,无论是在世界各地旅行,还是做其他事情,都是微不足道的。微小到令人惊讶的程度,但如果不能忍受这种微小,学问就会变成空谈。语言的框架可以随意扩大,因此在这样做的时候,人们会误以为自己是在以全球视野思考,能够包容整个世界。①这种错觉会让人迷失。木匠建造木屋,农夫种植稻米和蔬菜,他们不会陷入这种误区。因为他们无法以全球标准来削木头或种植水稻,所以他们在自己的工作中都很明智。他们深知自己所能做到的事情。做学问、从书籍中学习,其实与这些并无不同。因为这些都是我们作为个体在天地间生存的方式。
人们无法以全球视野思考问题。那是一种错觉、幻想和愚蠢的自负。然而,我们可以在天地间敞开自己的心扉。如果一个人能够以自己的能力思考和创造,他当然知道这意味着什么。每个人生来都带着自己的气质。对于做学问的人来说,这种气质就像农夫所拥有的土壤。如果土壤没有向天地敞开,就会干涸,变得贫瘠。耕耘这片土地,引水灌溉,种植幼苗。每天帮助幼苗成长,同时感受到自己内心也在成长。学问和思想是否也应该像种植在人们气质中的幼苗一样成长呢?孩子们通过学习来耕耘自己的气质,引水灌溉,种植从书籍中获得的幼苗。这只能靠孩子们自己去尝试,只有这样,他们才能与所学的书籍一起成长。孩子们学习是为了从自己的气质中培育出最终成熟的精神作物。“教养”原本指的是这种作物,而不是指那些自以为博学的人的空谈。
(摘自前田英樹《自学精神》)
A
乳幼児期の子どもは、身近な人とのかかわりあい、そして遊びなどの実体験を重ねることによって、人間関係を築き、心と身体を成長させます。ところが乳児期からのメディアばかりの生活では、外遊びの機会を奪い、人とのかかわり体験の不足を招きます。実際、運動不足、睡眠不足そしてコミュニケーション能力の低下などを生じさせ、その結果、心身の発育の遅れや歪みが生じた事例が臨床の場から報告されています。このようなメディアの弊害は、ごく一部の影響を受けやすい個々の子どもの問題としてではなく、メディアが子ども全体に及ぼす影響の甚大さの警鐘と私たちはとらえています。
特に象徴機能が未熟な2歳以下の子どもや、発達に問題のある子どものテレビ画面への早期接触や長時間化は、親子が顔を合わせ一緒に遊ぶ時間を奪い、言葉や心の発達を妨げます。
(社団法人日本小児科医会http://jpa.umin.jp/download/media/proposal102.pdf2010年6月18日取得による)
B
専門家からは「テレビをやめて積極的に外遊びをしましょう」「自然の中で遊びましょう」という意見が聞かれますが、お母さんたちは進んでテレビを見せているのではなく、地域に出ても同世代の子どもがいない、昔と比べて自然がなくなった、という問題もあるのだと思います。(中略)
多くの親は、テレビの長時間視聴がよくないことを自覚しており、見せる内容にも気を遣っています。生活の中からテレビを排除するだけではなく、一日に大時間も七時間も子どもにテレビを見せる親の背後に何があるのかを考えなければ、問題の根本的な解決にはならないのです。
したがって、私たちの生活スタイルと、子どもにとって望ましいテレビ視聴のあり方のバランスをとりながら、これらの検証を進める必要があるのではないでしょうか。
(小西行郎「早期教育と脳」による)
(注1) メディア: ここでは、テレビやビデオ (注2) 臨床の場: 実際の診察、治療の現場 (注3) 象徴機能: ここでは、身の回りのものを、例えば言葉などで表す働き
译文 A
婴幼儿期的孩子通过与身边人的互动以及玩耍等实际体验,建立人际关系,促进身心成长。然而,如果从婴儿期开始就沉迷于媒体,会剥夺孩子户外玩耍的机会,导致人际交往体验的不足。实际上,这会导致运动不足、睡眠不足以及沟通能力下降等问题,临床上已有报告指出,这会导致孩子身心发育迟缓或扭曲。我们认为,这种媒体的弊端不应仅仅被视为少数易受影响的个别孩子的问题,而是应该作为媒体对所有孩子产生巨大影响的警钟。
特别是对于象征功能尚未成熟的2岁以下儿童或发育有问题的儿童,过早或长时间接触电视屏幕会剥夺亲子面对面玩耍的时间,阻碍语言和心理的发展。
(摘自社団法人日本小児科医会http://jpa.umin.jp/download/media/proposal102.pdf2010年6月18日取得)
B
专家们建议“停止看电视,积极进行户外活动”、“在自然中玩耍”,但我认为母亲们并非主动让孩子看电视,而是因为即使外出也找不到同龄的孩子,与过去相比,自然环境也减少了。(中略)
许多家长已经意识到长时间看电视对孩子不好,并注意选择观看内容。仅仅从生活中排除电视是不够的,还需要考虑那些让孩子长时间看电视的家长背后的原因,否则无法从根本上解决问题。
因此,我们需要在保持生活风格与孩子理想电视观看方式的平衡的同时,进一步验证这些问题。
(摘自小西行郎《早期教育与大脑》)
最近、思想を表現する方法について考えることが多くなった。たとえば、文章は思想を表現する方法のひとつだけれど、その文章にもいろいろな表現形式がある。哲学の勉強をはじめた頃の私は、さまざまな形式のなかで論文という形式だけが思想表現の方法にふさわしいと思っていた。
しかし、後に、この考え方を訂正しなければならなくなった。思想の表現として、論文が唯一の方法だということは絶対にない。私たちは、優れたエッセイや小説、時をとおして、しばしば思想を学ぶ。とすれば、思想を表現する文章のかたちは、自在であってよいはずである。
ところが、そう考えてもまだ問題はある。というのは、思想の表現形式は、文章というかたちをとるとは限らないのだから。絵でも彫刻でも、音楽でも、つまり実にさまざまなものを用いて、思想を表現するのは可能なはずである。そのなかには、文章にならないものもある。
たとえば私の村に暮らす人々のなかに、自然に対する深い思想をもっていない人など一人もいない。村の面積の96パーセントを森や川が占めるこの村で、自然に対する思想をもたなかったら、人は暮らしていけない。ところが村人は、<自然について>などという論文を書くことも、文章を書くこともないのである。そればかりか、自分の自然哲学を、絵や音楽で表現しようとも考えない。
そんなふうにみていくと、村人は自然に対してだけではなく、農についての深い思想や、村とは何かという思想をもっているのに、それらを何らかのかたちで表現することも、またないのである。
とすると、村人たちは、どんな方法で自分たちの思想を表現しているのであろうか。私は、それは、<作法>をとおしてではないかという気がする。
(中略)考えてみれば、もともとは、作法は、思想と結びつきながら伝承されてきたものであった。たとえば私は、食事の作法を厳しくしつけられた。食べ物を残すことはもちろんのこと、さわきながら食事をすることも、けっしてしてはいけなかった。それは、食事は生命をいただくものだ、という厳かな思想があったからである。茶碗の中の米だけをみても、人間はおそらく何万という生命をいただかなければならない。だから、そういう人間のあり方を考えながら、いま自分の身体の中にと移ってくれる生命に感謝する。この思想が食事の作法をつくりだした。
ところが、近代から現代の思想は、このような、日々の暮らしとともにあった思想を無視したのである。その結果、思想は、文章という表現形式をもち、文章を書く思想家のものになった。そして、いつの間にか人間の上に君臨し、現実を支配する手段になっていった。
(内山節「「里」という思想」による)
译文
最近,我经常思考表达思想的方法。例如,文章是表达思想的一种方式,但文章也有各种各样的表现形式。刚开始学习哲学时,我认为在各种形式中,只有论文这种形式适合表达思想。
然而,后来我不得不纠正这种想法。思想的表现方式绝不仅仅是论文。我们通过优秀的散文、小说以及时间的推移,常常学习到思想。因此,表达思想的文章形式应该是自由的。
但是,即使这样思考,问题依然存在。因为思想的表现形式不一定局限于文章。绘画、雕塑、音乐等,实际上可以用各种方式来表达思想。其中有些是无法用文章表达的。
例如,在我居住的村庄里,没有人没有对自然深刻的思想。这个村庄96%的面积被森林和河流覆盖,如果没有对自然的思想,人们就无法生活。然而,村民们既不写关于自然的论文,也不写文章。不仅如此,他们甚至不考虑用绘画或音乐来表达自己的自然哲学。
这样看来,村民们不仅对自然有深刻的思想,对农业和村庄的意义也有深刻的思想,但他们并没有以任何形式表达这些思想。
那么,村民们是如何表达自己的思想的呢?我觉得是通过<作法>来表达的。
(中略)仔细想想,原本作法是与思想紧密相连并传承下来的。例如,我从小就被严格教导用餐的作法。不能剩饭,也不能边吃边说话。这是因为有一种严肃的思想:吃饭是接受生命的行为。仅仅看一碗米饭,人类可能要接受数万个生命的馈赠。因此,在思考人类的生活方式的同时,感谢现在进入自己身体的生命。这种思想形成了用餐的作法。
然而,从近代到现代的思想忽视了这种与日常生活紧密相连的思想。结果,思想采用了文章这种表现形式,成为思想家写作的对象。不知不觉中,思想凌驾于人类之上,成为支配现实的手段。
(摘自内山節《“里”的思想》)
本文作者:yowayimono
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